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真説 日本武尊伝(川上梟師)

佐賀県

輿止日女神社の神話を裏付ける場所が数か所存在します。

青木繁 日本武尊

日本武尊が白角折神社で陣をはる前に行宮があったと伝わるのが四阿屋神社です。

四阿屋神社

参道

この神社は川を渡っていくのが参道になります。

一の鳥居
手水舎

天智天皇の時代熱田神宮の分霊を勧請したとあります。

由緒

郷社四阿屋神社
御祭神
日本武尊 大山祇尊 住吉大明神 志賀大明神 豊受大神
由緒之概要
景行天皇筑紫御巡狩の際狭山の里に行在せられ 後 日本武尊熊襲御征伐の時も亦此地に御駐輦ありたれば 行宮即ち仮宮の義を取り 四阿屋の里と稲す 斯る由緒の地なれば 里人相謀りて此地の産土神として 紀元1322年天智天皇元年(662)2月15日尾張國熱田神宮より御分霊を勧請し 四阿屋宮と称す 後 住吉明神志賀明神を併祀し 最近また山神社(大山祇尊)田代神社(豊受大神)を合祀す(境内案内より)

景行天皇天皇が造り、後に日本武尊が熊襲征伐に使ったそうです。

拝殿

拝殿

拝殿の天井絵は見事です。
神紋は見たことがない柄です。

拝殿の彫刻は鰐鮫でしょうか?

本殿

切妻部分の彫刻は細かい造りです。

摂社

十一面観音菩薩

日本武尊が熊襲征伐にかなり時間をかけていた様子が伺えます。


九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。                            古事記より

この時点ではまだ日本武尊ではなく小碓皇子(おうすのみこ)と名乗っていた時代の話です。

白角折神社(おしとりじんじゃ)

由緒

樹齢1,000年と伝わる古木

祭神
日本武尊

由緒
白角折神社は、日本武尊を祭神とし、貞観15年(873)に従五位下の神位に叙せられた古社で、櫛田宮・高志神社とともに櫛田三所大明神と称されていました。
城原川が谷より平野部に流れ出る水口を治める役割を持つ神社でもあります。
白角折の名称は、日本武尊が熊襲征伐の折に白角折社のから的に向かって矢を射たという伝説があり、白角折は幣作りのおしとり部と、的は弓作りのいくわ部の関連が伺えます。

拝殿


本殿

佐賀に伝わる小碓皇子の伝承

第13代景行天皇の第2皇子日本武尊は始め御名を小碓尊といっておられた。このころ筑紫(福岡県)を根拠地にして北部九州地方をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。九州全土を征服して各地の穴ぐらに陣を張っていたが、その威勢に恐れて誰一人刃向う者がいない。そこで天皇は皇子小碓尊に熊襲征伐を命じられた。これが西紀82年12月でこれを平定するまでには凡そ6年間かかったという。小碓尊は英智と武勇にすぐれた方で、弟の彦王を大将とし武内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐらの本陣を攻めことごとく平げたが、その時、頭の熊襲たけるはいち早くどこかへ逃げ去ってしまった。あとで、川上へ逃げ込んだといううわさがあったので、尊は筑紫から舟に乗って肥前の堀江(神野町)に一たん寄港してから、さらに舟を蛎久まで進めここで上陸され、熊襲残党の隠れ場所をひそかに確められた。そのころ大願寺の山中で里の娘たちを大ぜいかり集め大酒宴を張っている者があり、それが熊襲であることがわかった。智謀にたけた尊は女に変装し、夜陰に乗じて里の娘たちの中へまぎれこまれたが誰も気付かない。尊は家来たちに酒をつぎながらも熊襲の頭から目を放さず、次第に酔いが回って座が崩れかかったころには、高枕でうつらうつら眠り始めた。ころはよしとばかり尊は「起きよ、熊襲っ」と叫びざま枕をけとばされた。はっと目をさました頭は上半身を起こして「何やつだ」と叫び、あわてて枕もとの太刀に手を伸ばした。それを取らせてなるものかとさっと一太刀浴びせて「われこそは筑紫で見参した小碓尊だ。天下をわが物顔に騒がしたふらち者め、これが天罰の制裁だ」
と振り上げた二太刀目がみごと頭の急所にきまってその場にどっと崩れ伏したが苦しい息の下から、「われこそは日本一の武勇者として誇り続けてきたが、われ以上に尊のような智勇権謀者のいることを知らなかった。尊こそはまこと日本一の武勇者なれば以後は日本武尊と尊称し奉る。われはこの川上の土地の名をもって姓を改め川上たけると称せん」
 といって息絶えたという。また、尊が二の太刀を浴びせようとした時「待て、われこそは………」といったことからこの辺を「まて村」つまり「真手」という名がつき、現在もその名が残っているという。
そして現在の健福寺の位置より約1kmほど北に最初行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという。出典:大和町史P.657〜658 川上たけると真手 | さがの歴史・文化お宝帳より

大願寺跡

熊襲のアジトがあったと云われる大願寺跡

現在の健福寺

分析

川上梟師は輿止日女神社の系図で記したように糸島の産宮で生まれ鸕鶿草葺不合尊と奈留多姫の息子であり次期王であった可能性が高い人物です。

阿蘇氏である小碓皇子は武内宿禰や弟の彦王と共に六年間かけて輿止日女神社付近で川上梟師を打ち梟師(タケル)の称号と権力を得たようです。

系図

百嶋神社学系図では天忍穂日・天児根根と猿田彦と夫婦であった天細目の間に景行天皇が生まれ その息子が小碓皇子と記されていますが、私見では小碓皇子は長脛彦のことではないかと推測しています。理由はまた別の機会にご紹介しましょう。

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