宇美八幡宮(伊都国)

伊都国

宇美八幡宮(伊都国)

天日鉾の伝承は雷山麓の宇美八幡宮に記されています。

参道

「最古の戦死者たち」
(略)
さらに、長野宮ノ前遺跡では24基の木棺墓が主軸を合わせて整然と横並びに埋葬されていて、短期間に埋葬されたことをうかがわせる。その多くには頭部に赤い顔料が塗布され、二基の木棺墓から切先や茎が欠けた石鏃(せきぞく)が出土し、これらも副葬品ではなく体内に残存したまま葬られた可能性が高いと考えられる。
(略)

このように、糸島地方の早・前期の墳墓では、戦いの痕跡をとどめた墓が多く発見されていることがわかる。糸島地方では、弥生時代初期の戦いの事例が集中していることは従来から指摘されていうところであり、弥生文化が、この地において様々な軋轢の中で根を張り、拡大していったことを物語っている。

しかし戦いの対決軸が、縄文的な旧勢力 対 渡来系新興勢力といった単純なものではなかったことは、先の新町遺跡の戦死者の墓が端的に物語る。

境内

境内社

由緒

祭神
上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神 応神天皇 神功皇后 清龍権現 玉依姫 瓊瓊杵尊

上宮
長獄山南方に鎮座丸形山陵(周囲四十五間)頂上に石碑がある。祭神は仲哀天皇
神社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年武内宿禰に命じ香椎に有るところの先帝の棺を当山に収めて築陵したとある。皇后の三韓渡航の折の殯宮の地か。

注:宮司の武内公文氏は、武内宿禰から数えて80代目にあたり、お宅には板に墨書された家系図(未確認)が残されています。

本宮
古命を長野八幡宮と言う。神功皇后、三韓御渡航のおり船上に神あり清龍権現なりと皇后の国土を守護せん。因って、神功皇后が無事御帰還の際 奉宴の祭を執り行ったという、その後、第十六代仁徳天皇の治天十年平郡木兎の宿禰の子博公を神官として、この霊蹟に神社を建立し気比大神天日鉾を祀らせたのが本宮の起源である。
下がって、第四十八代称徳天皇の守護景雲元年(一四二七年)社勤 公実が聖母宮 寶滿宮の三柱を勧請され、以降八幡宮の遺徳霊験あらたかになって宇美八幡宮と称するようになった。以下略

拝殿

狛犬

日本武尊と神功皇后の絵馬

本殿

虹梁に亀と兎です。

祭神で気になるのは気比大神と清龍権現と瓊瓊杵尊です。

気比大神

では最初の 神伊奢沙別命(気比大神)とは誰のことかというと

建内宿禰は皇太子(=ホンダワケ【応神天皇】)を連れて禊(ミソギ)をしようと、近江や若狭を巡り、越前の敦賀(ツルガ)に仮宮を建てて、滞在していました。
その敦賀の土地にいる伊奢沙和気大神(イザサワケ)が建内宿禰の夢に出て言いました。
「わたしの名前をその子の名前に変えたい」
ソレに対して建内宿禰は
「恐れ多いことです。
おっしゃるとおりに名を交換しましょう」
するとその神は
「明日の朝、浜に出かけなさい。
名を変えた『しるし』を差し上げましょう」
と言いました。
ホンダワケ皇太子が翌朝、浜辺に行ってみると、鼻の傷ついたイルカが、集まっていました。
それを見て、皇太子は言いました。
「私は神より、食料の魚をたまわった」
それで、その神を御食津大神(ミケツオオカミ【ミケツは神の食べる食物・天皇が食べる食物の意味】)と名づけました。現在は気比大神といいます。
またイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を「血浦」といいます。現在は「都奴賀(ツヌガ)」といいます。

御食の名前を持つ神と言えば 加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)で 『先代旧事本紀』「神代本紀」には「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあります

気比大神とは、糸島の宇美八幡宮の伝承で神功皇后の先祖である天日鉾のことであるとありました。

つまり天日鉾=気比大神=加夫呂伎熊野大神櫛御気野命=建速素戔嗚尊ということになり
天日鉾は素戔嗚ということになります。

気比大神と言えば 仲哀天皇に神罰を与え また応神天皇と名前を交換した神のことです。

清龍権現

通常清龍権現は豊玉彦(八大竜王)を指しますが、豊玉彦の神紋は右三つ巴ですが、こちらは左三つ巴 加えて波乗り兎は、大幡主のトーテムです。この神社は三韓征伐に関係する神社ですので、その血縁で左三つ巴を持つ者と言えば安曇磯良という結論になります。

上宮

由緒書きによると仲哀天皇の殯宮であるそうです。

なんとなく素戔嗚と瓊瓊杵尊と山幸の結び付きが判ってきた気がします。

古代伊都国は朝鮮半島から来る場合最短距離で有るため多くの神話上の人物が往来しました。

このルートは天日鉾が来日した際のルートを再現したもので 唐津~鏡山~雷山へと向かって行った様子が想像されます。

神籠石

雷山(955m)の中腹400~480m位の所に神籠石と呼ばれる石が積まれています。
この石は古代 天日鉾が砦を築いた跡という伝承が残っています。

神籠石の石碑

この説明によるとこの遺跡は7世紀のものでV字の谷を堰き止めるように南北に設置されているそうです。

北部の神籠石は大宰府・高良山・みやま・武雄などにありますが、いずれも白村江の戦いの際に造られたものとあります。

筒城

この雷山神籠石の辺りには「筒城」と呼ばれる中世原田氏の城館があり高祖城の支城があったそうです。

遺跡としては7世紀のものですが、古代 天日鉾の砦があったのも事実なようで それを証明する神社が麓に存在します。

伊都国(明治になって糸島郡)。糸島郡教育会編纂『糸島郡誌』に「而して日槍はまず新羅往来の要津たる伊覩を領有し此に住して五十迹手の祖となり、更に但馬に移りて但馬家の祖となりしなるべし。(久米邦武『日本古代史』に拠る)/案ずるに、久米邦武氏曰く「筑前雷山に存する神籠石は其〈天日槍を指す〉築きし古墳なるべし。其南の肥前山中に墓家の石窟夥しく存す。これ古き植民地なるを証するものなり」と。
 而して長野村県社宇美八幡宮祭神六座の内気比大神あり。越前国官幣大社気比神宮の祭神と同一の神にして、天日槍を祀れるなり。」

山の中腹に現在も多くの水を蓄えています。

コメント

  1. 上野俊一 より:

    興味深く拝見致しました。
    私も天日鉾=気比大神と考えますが、3世紀後半の人物と見て、スサノオの子五十猛が相応しいと思います。ニギハヤヒも絡んでいそうですね。
    阿曇、息長の交易ネットワークで製鉄や土木技術をもたらした人たちでしょう。

    • akiraoosugaakiraoosuga より:

      上野俊一さまコメントありがとうございます。先日福井の気比神社や関連神社を周りましたが、関連神社全てが須佐之男に関係する神社でした。特に長脛彦の子孫とされる織田家の織田明神では、神功皇后に誅殺された忍熊王が祭られており須佐之男が剣を授ける図が残っています。神紋も須佐之男と同じ織田木瓜でした。

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