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中臣烏賊津使主 (なかとみの-いかつのおみ)の伝承

対馬

太祝詞神社

対馬は古代から大陸と倭国・倭・ヤマトを結ぶ交通の拠点であり、「魏志倭人伝」でも倭の一国として登場し漁や船による南北の交易によって生活していたと記されている。また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」(ヒコ)と呼ばれる大官「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官による統治がなされていたそうです。

その交通の拠点と云われるのが厳原港でそこから南に下ったところに「記紀」 にも記される人物所縁の神社が存在します。

由緒

太祝詞神社
御祭神
太祝詞神 (天児屋根の別名)
大詔戸命 久茲麻知命 『大小神社誌』
大詔戸命 雷大臣命 『神社大帳』
太祝詞命 雷大臣命 『特撰神名牒』
御由緒
神功皇后新羅を征し玉ふ時雷大臣命御軍に従へり。新 羅降屬して凱還の後津島縣主となり韓邦の入貢を掌 る。對馬下縣郡阿連村に房り祝官をして祭祀の禮を教 へ太占、亀卜の術を傳ふ。後加志村に移る。今太祝詞 社の合祭す。明治七年六月村社に列せらる。

かつては加志大明神・賀志宮とも称したそうです。

御祭神の太祝詞神(天児屋根の別名)とは中臣氏(藤原氏)の祖と云われ阿蘇の日子八井耳(草壁吉見)のことで太祝詞命 雷大臣命とは仲哀・神功皇后に仕え三韓征伐に同行した中臣烏賊津使主 (なかとみの-いかつのおみ)のことです。

中臣家の祖 雷大臣こと中臣烏賊津使主(なかとみいかつお)は三韓征伐凱旋後対馬で生涯を終え 韓邦の入貢を掌り 祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝えたという。

太祝詞とはどんなケガレや罪も、海の神様が呑み込んで浄化してくれる、いわば呪文(ココロの中でアマテラスオオミカミと唱えながら)のような言霊のことだそうです。

よく神社で耳にする「かしこみ かしこみ」と唱える言葉です。

この神社はその祝詞発祥の地だそうです。

参道

狛犬は既に風化しています。

雷大臣の家跡で墓と云われる宝筐塔と伝わる

拝殿


神紋は五七の桐 千木は縦削ぎです。

雷命神社



伝教大師入唐帰着之地

太祝詞神社から海沿いに沿って行くと有る記念碑にたどり着きます。


「伝教大師入唐帰国着船之地」顕彰碑、805年(延暦24年)に留学僧最澄が乗っていたとされる船が阿連に着いた記録がある。

そのすぐ先ですが中臣鳥賊使主住居と伝わる神社があります。

参道

由緒

雷命神社
祭神 雷大臣命
由緒
当社は雷大臣の住居の跡なり。「延喜式」に載する社なり。貞観十二年正五位下を授けられる。明治七年六月村社に列さらる。と述べているが、その冒頭に、当社が雷大臣の住居の地というのは、宮司の橘氏が雷大臣の後胤と伝え、亀卜を行っていた事とも関連して、大切な伝説とされている。

順に鳥居を見てみましょう。

八龍大明神

拝殿

神社は橘紋 これも中臣の家紋ではありません。

摂社
オヒデリ様

オヒデリ様
陽の女神・お日照(オヒデリ)様の神事の日にも雨を降らせたレインマンことだそうです。

総合するとここは元々豊玉彦の仮宮であったものを中臣鳥賊使が使用し、亀卜を橘氏が引き継いだようです。

分析

 三韓征伐以前なのか以後なのか明確ではありませんが、中臣烏賊津使主 (なかとみの-いかつのおみ)は対馬に居住し祝詞を発案したということは判りました。

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