大己貴神社

福岡県

英彦山神宮の麓、伝承の通りならば国を追われた大己貴移り住んだ場所を祭る神社が朝倉存在します。朝倉郡筑前町は弥永地区、県道592号線のそばにある。「大己貴神社」は、今から1800年以上前に創建された国内最古の神社という説も根強い神社です。鳥居には大神神社とあり、日本書紀に書かれている「大三輪社」のことではないかといわれており、この地域も旧三輪町といわれていました。

参道

ここにも英彦山を囲む大行事の文字が書かれています。

三ノ鳥居は大神神宮です。

「川上とこの川下や月の友」芭蕉が江戸深川で読んだ句ですが、ここに意味があるのかもしれません。

由緒

大己貴神社
所在地 朝倉郡筑前町弥永字大神屋敷
祭神  大己貴命・天照大神・春日大明神
 地元では「オンガサマ」と呼び親しまれています。
この宮は神功皇后の伝承地で、皇后が新羅(大陸)との戦いのとき、兵が集まり難かったので、兵が集まるように社を建てて祈願したとのことで、この時の社が、この神社であるとされ、我が国で最も古い神社とされています。
社殿・拝殿は町の重要文化財に指定され、江戸時代から明治初期の建造物で、原形は八幡造りでしょう。二棟の切妻造り、平入の建物が前後に接続した形をしています。
しかし、建物の中間に石の間をおき、前建物が拝殿、後ろの建物が神座です。拝殿には唐破風の向拝がついています。
平成二一年三月  筑前町教育委員会   案内版より

大己貴神社
 式内社で「延喜式社名帳」に「於保奈牟智神社」と記載されている。「日本書紀」によると「仲哀天皇九年秋九月庚牛朔巳卯、神功皇后諸国にして、船舶を集め、兵甲を練らる。時に戦卒つとひかたし、皇后の曰く、必神の心ならんとて、大三輪社を立て、以て刀矛を奉り玉ひかしは、軍衆自ら集まる。」と神功皇后とこの神社との逸話が記されている。また江戸時代の「筑前国風土紀」の中に「九月二十三日祭礼あり、此日神輿御神幸あり、御旅所は村の西十町秤のさやのもとと云う所あり。(中略)然れ供夜須郡東部の惣社なれは、其敷地広く産子殊に多くして、人の尊敬あさからず。」現在十一月二十三日秋の秋季例祭の記載がある。
 同じく江戸時代の「太宰管内志」の中の「筑前神社誌に皇后(神功皇后)より後に嵯峨天皇弘仁二年の勅願有て御建立あり其俊六百六十年を経て後土御門院文明三年勅願として御建立あり其その期間数度造替ありといへども詳ならず伝われる縁起記録類は天正十五年より九十六年の間かり殿に居ましける寛文十二年石鳥居建立祭禮神幸儀式同十三年に再興す本庄貞享四年改造す拝殿は元禄五年建立同六年社領少黒田甲斐守寄付し給へり。神職松木氏先祖より寛永二年まで六十七代相続せり」とある。
 また「筑前国風土紀付録」に「此村及甘木・隈江・楢原・甘水・持丸・菩提寺・千代丸・牛木・馬田・野町・依井・大塚すへて十四村産神にして、夜須郡の惣社也。」とある。
平成二十六年十二月  筑前町         案内版より

少なくとも「日本書紀」に記載があり、多くの天皇により保護された神社です。
 もしかすると日本最古の神社かも知れないようです。英彦山との関連を考えてみましょう。

境内

狛犬

拝殿

中殿 大己貴 東殿 天照大神 西殿 春日大明神
春日大明神は通常 武甕槌命 経津主 天児屋根 比売神のことをいいます。

本殿

千木は外削ぎ 神紋は左三つ巴 あとは特に手がかりはありません。

摂社

八幡宮

大国主と大神山の遥拝所

須賀神社

絵馬堂

神功皇后と羽白熊鷲(説話)
所在地 筑前町弥永字水口四五九ー一番地(歴史の里公園)
昔、羽白熊鷲という在地の豪族が本拠を朝倉市秋月の「荷持」(野鳥)に構え、筑前町一帯を支配していました。熊鷲は白い鳥の羽根を付けて鷺舞いを演じ、「まつりごと」行う鳥装の司祭者です。ある年、ヤマトの国から神宮皇后が九州にやって来て、香椎(福岡県東区香椎)に宮を定めました。そして、皇后は朝鮮半島の新羅と戦うために、各地の豪族に命令を出し、多くの兵士を集めさせました。しかし熊鷲はこの命令に従いませんでした。
 皇后はたいそう怒り、新羅出兵の前に熊鷲を討伐することにし、軍隊を香椎の宮から朝倉地方へ進軍させました。皇后軍は筑前町の砥上方面から熊鷲の領地へ侵攻し、森山峠を越えて、栗田に到着したと想定されます。しかし、皇后は栗田で行軍を停止させ「松岟」(筑前町栗田字松尾)に宮を定めました。決戦は「層増岐野」(注ぎ野・・・新町・高上付近)で行われました。  以下略

ここの付近の神社も少し調べてみましょう。

田神社

由緒

田神社
祭神は埴安命を祭るが天神神とも呼ばれています。
 境内に日隅宮やイボ神様と呼ばれるもにがあり、日隅宮はウツノミヤ(ウズノミヤ)から嘉永年間(江戸時代)に移されたものと伝えられます。堂内に鯰が描かれた絵馬が奉納されています。
 このお宮は、名前のとおり農耕の守り神として信仰あつく、手水盤の水を受けて帰小笹で田畑に降ると害虫駆除になるとされていました。また「イボ」や「白なまず」」といわれる皮膚病に治ると伝えられ、鯰の絵馬はそのお礼として奉納されたものでしょう。平成二十二年三月       筑前教育委員会

参道

天神社の扁額と猿田彦大神

埴安彦 別名 天神 地録 十六神 塩土翁 大幡主 全て同じ神のことです。たまに天満宮と混同されますが、天満宮は菅原道真公のことで神紋も同じ梅でも少し違います。

神社の名前は田神社ですが、社には日隅宮とあります。

日隅宮とは、「日本書紀」では国譲りに応じた大己貴に対し「あなたが今後住まうべき天日隅宮(あまのひすみのみや)は、今、私がつくりましょう。その敷地の規模は、千尋もあるたく縄を百八十結びにしっかり結んで設定しよう。その宮殿建築の制式は、柱は高く太く、板は広く厚くしよう」といった宮のことです。

一般には島根の出雲大社のことをいいますが、島根の出雲大社は明治四年まで杵築大社と呼ばれ、「元明天皇の時大国主のみ杵築に移す。」と記載のある神社です。

ここが日隅宮であったなら、日本最古の大己貴神社がここの理由も説明つきますし、英彦山神宮との話も説明がつきます。

神功皇后の話よりよっぽど重要な神社です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました