仁徳天皇55年3月に武内宿禰は360余歳にして因幡国に下向し、亀金に双履を残して行方知らずとなったという。同文では続けて、因幡国法美郡の宇倍山山麓には武内宿禰の霊を祀る社(鳥取県鳥取市の宇部神社)があるが、武内宿禰は東夷を討った後この宇倍山に入って行方知らずになったのだと伝える。
因幡風土記より
宇倍神社
境内
因幡一宮にして武内宿禰の終焉の地と伝わる神社である。
拝殿
由緒書
御祭神 武内宿禰命
宇倍神社の祭神は、大和朝廷で5代(景行・成務・仲哀・応神・仁徳)の天皇に仕え、360余歳まで生きたと伝えられる ~以下略~
本殿
千木は縦削ぎ 鰹木は偶数です。
外部から得られる情報は 鳥 亀 門光紋 安曇磯良(表筒男)のものです。
双履石
『因幡国風土記』にもふたつの履(くつ)を残して行方不明になった記されていますが、双履(ぞうり)があったとされる地には双履石(そうりせき)が祀られています。
分析
出雲王家伝承
武内宿禰はもともと武内太田根という紀伊国出身でした。彼には物部の血と、ヤマト王国の磯城王家の血が流れていました。
彼の生きた時代は3世紀、卑弥呼の時代でした。
武内太田根は物部の大王から、物部の敬称である「宿禰」を授かり、以後武内宿禰と名乗るようになります。
このとき九州では物部王国と豊王国が手を組み、連合軍となってヤマト王国に東征を仕掛けようとしていました。
この連合軍を指揮したのが、物部イニエ大王の後を継いだ宇佐豊玉姫(卑弥呼)で、武内宿禰は物部の血を引いてもいたので、この物部・豊王国の連合軍側に付いたのです。
武内宿禰は魏国に遣使した際に、魏国から良い位をもらえませんでした。これまで魏国に遣使し物部の者達は良い位をもらえていましたが、卑弥呼が魏国に頼んでそれをさせなかったからです。
これに不満を持った武内宿禰は、物部側からヤマト側に付くことになりました。そのため、魏国から連れて帰った道鏡の工人を乗せた船はヤマトへと向かったのです。
そのご物部・豊王国の連合軍は東征を開始し、ヤマト王国を滅ぼし、ヤマトでは物部による新たな政権が発足しました。このときヤマト王国(磯城王朝)最後の大王・彦道宇斯(彦多都彦)は因幡国へと追われ、武内宿禰も大王を守るために因幡国へと移り住みました。
しかし、物部イクメ(垂仁天皇)に暗殺を命じられたため、追手が因幡国に迫り、武内宿禰は靴も履かずに逃げたため、その忘れ去られた靴の伝承が宇倍神社に残っています。
因幡国から逃げた武内宿禰は、西の出雲まで逃げ富家に助けを求めました。
富家は自分の領地(松江市八幡町)に新しく家を建て、そこに武内宿禰をかくまったといいます。その場所には現在、武内神社があり、武内宿禰が祀られています。
斉木雲州『出雲と蘇我王国』より
高良玉垂宮神秘書 止誉比売縁起との比較
高良大社奥宮にも武内宿禰は因幡の宇部神社で靴を残して行方知れずとなり、その靴は高良大社の奥の院に祀られているとあります。
武内宿禰は表筒男ですので時代は、神功皇后三韓征伐時代 4世紀の人です。
武内宿禰は表筒男(安曇磯良)ですので物部と安曇氏の血は引いています。
止誉比売縁起には海濱宮(へつみや)の湍津姫(鴨玉依姫)は葦原中国の宇佐嶋に降居され、豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社これなり。と記されている。
推論
人物・時代に違いがあるものの大枠は、ほぼ似通っており出雲王家の伝承も宇倍神社の伝承から後の時代の話は可能性は有るかもしれません。
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