仲哀天皇の子供である香坂王と忍熊王は、仲哀天皇の皇后である神功皇后が産んだ応神天皇(=ホンダワケ)が天皇になるのが我慢できず、朝鮮征伐から帰ってきた母子を兵士を集めて殺そうとします。その戦争の前に狩をして吉凶を占う「誓約狩(ウケイガリ)」をしたところ、イノシシ(日本書紀では赤いイノシシ)に香坂王が食い殺されてしまいます。誓約は神の意思を伺うものですから、これは明らかに敗北を示唆したもの。それでも忍熊王は戦争を始めます。
忍熊王(オシクマノミコ) – 日本神話・神社まとめ
神功皇后が香坂王と忍熊王の反乱を聞いたとされる場所が北九州の熊野神社です。
熊野神社
由緒
御祭神
伊弉冊尊(いざなみ)速玉男命(はやたまお 事解男命(ことさかお)
熊野神社鎮座跡(下上津役1丁目15番1号)
伝説によればこの地は、神功皇后が三韓を征伐し、帰朝の途中、群臣を率いて当駅に入られたとき、郡首をはじめ庶民まで迎えたので、お迎いと名付けたという。
時に、皇后は二皇子謀反の事を聞き、応神天皇を紀伊の国に潜行させ、この地に祭壇を設けて紀伊国鎮座の熊野の大神を祭り、皇子の安泰を祈った。
昔は社殿を建てて祭り、神田20町余あって、神事も最も厳重であったが、多くの星霜と数度の兵火にかかって、祭事もいつしか怠り神田もなく現在に至る。
境内
拝殿の注連縄は阿蘇の神社によく見られる三蛸の注連縄 神紋は八咫烏です。
疑問が残るのは畿内で起きた香坂王と忍熊王の反乱を神功皇后が知りえたかということです。
畿内で起きた反乱の首謀者の一人である忍熊王が福井県に祀られているのも不思議な話で更にその神社には不思議な伝承が伝わっています。
織田明神 劔神社
参道
実はこの神社は尾張の織田信長の祖先であり織田家発祥の地なのです。戦国大名の織田氏と伊達氏は長脛彦の子孫を名乗っていることはご周知のとおりです。
このうち伊達家は秋田氏の分家ですので長脛彦の兄 安日彦の血統ですが、織田家に関していえば長脛彦の直系のようです。しかしここは神功皇后に征伐された忍熊王を祖とする神社です。
すると長脛彦の子孫の父方か母方が忍熊王に繋がるか 長脛彦が忍熊王のことであるかということになります。
拝殿
神紋は織田木瓜
これは素戔嗚尊の五枚木瓜の神紋です!
由緒
祭神
素戔嗚尊 気比大神 忍熊王
越前織田に伝わる伝承
越前二宮・劔神社は福井県丹生郡越前町織田に所在し、織田盆地のほぼ中心に鎮座している。織田盆地は日本海に接する丹生山地の中部に位置し、丹南盆地など内陸部を結ぶ交通の 要所でもある。劔神社の古伝によれば、第7代の孝霊天皇の御代、伊部の郷の住民が座ヶ岳(標高390m)の峰に素戔嗚尊の神霊を祀ったと伝えられる。
その後、第11代の垂仁天皇の御代に、伊部臣という郷民の長が、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が鳥取川上宮で作らせたという御剣を、素戔嗚尊の御霊代(御神体) として奉斎し、「剣の大神」と称えて崇めたと伝えられる。伊部臣とは、第5代の孝昭天皇の第1皇子の天足彦国押人命(あめたらしひこおしひとのみこと)の子孫であるといわれ、伊 部氏の長となり、代々伊部臣と称したようである。
また、劔神社は仲哀天皇第2皇子である忍熊皇子が、座ヶ岳の剣大明神を現在の地に遷し祀ったことにちなむ。座ヶ岳は劔神社の元宮という位置づけで、両者には深い関係性が認め られる。嘉暦3年(1328)書写とされる『剣大明神縁起』では天利劔尊(忍熊皇子)、『織田剣大明神記録』では日本武尊、『越前国名蹟考』(江戸時代後期)では剣彦命(素戔嗚尊の 御子)と忍熊皇子など祭神は交錯しているが、忍熊にまつわる記述の占める割合は多い。古くから忍熊皇子が祭神として認識されていたようである。
『延喜式』神名帳には「剣神社」とあるが、祭神までは不明である。現在の祭神は、素戔嗚大神(すさのをのおおかみ)・気比大神(けひのおおかみ)・忍熊皇子(おしくまのみこ )である。劔神社は昭和3年(1928)に国幣小社、第2次世界大戦後は神社本庁の別表神社となった。
一方、摂社である織田神社は、保食神(うけもちのかみ)[豊受大神]、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)[仲哀天皇]、誉田別尊(ほんだわけのみこと)[応神天皇]であ る。末社の稲田姫神社には奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、同じく薬師神社には少彦名命(すくなひこなのみこと)、同じく小松建勲神社には平重盛公と織田信長公が祀られて いる。
つまり素戔嗚尊の息子もしくは日本武尊の子孫仲哀天皇の息子 忍熊王が素戔嗚の正統な後継者でその子孫が代々織田明神を護ってきたと書いてあります。
この時素盞嗚大神様は忍熊王の夢枕に立ち『皇子努力せよ われ今汝に霊劔を授くべし、之を斎き奉らば賊徒は直に平定すべし。
我は素盞嗚尊なり』と告げ劔を授けたと伝わる。
境内社
分析
これらの神社から考えられることは、
1、まず香坂王と忍熊王は越前福井ではなく朝倉の福井に居たかもしれないということ。
2、香坂王と忍熊王とは安日彦と長脛彦の投影であるかもしれない又は長脛彦の子孫かも知れないということが考えられます。
3、長脛彦は事代主の一族と記載されていますが、織田明神が長脛彦を祀る神社だとすると素戔嗚の一族であることがわかります。
越前福井には継体天皇や朝倉氏(旧日下部氏)も存在し、福岡県の朝倉との関係も否定できません。
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