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瓊瓊杵尊

福岡県

糸島の天降神社

「天の石位(いわくら)を離れ,天の八重たな雲を押し分けて,稜威の道別に道別きて(いつのちわきにちわきて),天の浮橋にうきじまり,そり立たして,筑紫の日向の高千穂のくじふる峯」に天降った。 ここで天孫が宣言するには,「此地は韓国(からくに)に向ひ,笠沙の御前(みさき)を眞来通りて(まきとおりて),朝日の直刺す國(たださすくに),夕日の日照る國なり。此地は甚吉き地(いとよきち)」。 

「古事記」より

と記載があるのは瓊瓊杵尊の項で 瓊瓊杵尊が来たのは「魏志倭人伝」で云うことの伽耶韓国で最初に降り立ったのは伊都国の幣の浜のようです。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降臨(光臨)した幣(ニギ)の浜

桜井二見ヶ浦

日本の昔の話で山幸彦が龍宮から帰還した砂浜も、ウガヤフキアエズの産まれた場所(砂浜)も天孫降臨と同じ志摩町の「幣の浜」とされています。

瓊瓊杵尊の伝承地は数か所あってそれをあげると

1 宇美八幡宮の境内社、天降神社 
  現在:糸島市前原町川付785  旧:前原市長糸川付大原 
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:長野川の東、主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い   2-1、2-2 川上六所神社合祀 
  現在:糸島市本535-1  旧:前原市長糸本西原
              旧:前原市長糸本畝詰
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:①畝詰神屋敷の天降天神、②西原の天降天神である天降神社                  を遷座、六社合祀,主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い

3 雉琴神社の境内社、天降神社
  現在:福岡県糸島市飯原2105   旧:前原市長糸飯原日明
                 元:糸島郡長糸村大字飯原字日明
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い  
4 天降神社
  現在:糸島市飯原152   旧:糸島郡長糸村大字飯原字鶴ヶ迫
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い  
5 天降神社
  現在:糸島市瀬戸683 
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い  
6 天降神社
  現在:糸島市新田320 旧:前原市新田大堺                                    
    元:糸島郡前原町大字新田字大堺
  祭神:瓊々杵尊   
7 加布里天満宮の境内社、天降神社 
     現在:糸島市加布里    旧:前原市加布里宮園   祭神:瓊々杵尊 
     備考:かつて今宿(福岡市西区)にあったものを大正三年に      天満宮東側に遷宮  
8 天降天神社
  現在:糸島市二丈波呂       旧:二丈町一貴山波呂浦 
  祭神:瓊々杵尊 
      備考:google mapには熊野宮とある。
     主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い  
9 天降天神社 
  現在:糸島市二丈石崎 旧:二丈町一貴山石崎  元:糸島郡一貴山村
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:主要地方道49号線(大野城二丈線)沿い
10天降神社
      現在:福岡市西区大字田尻259 
  祭神:瓊々杵尊   11天降天神宮
  現在:糸島市志摩桜井666    旧:志摩町桜井口ノ坪    元:糸島郡櫻井村 
  祭神:瓊々杵尊 
      備考:口ノ坪天神天ヶ岳と宮地岳の間。

12桜井神社(岩戸宮)         現在:糸島市志摩桜井4227   元:末竹天神  志摩町桜井末武
  祭神:瓊々杵尊 
  備考:末竹天神社。末竹にありて瓊々杵尊を祭神としたりと。      (糸島郡誌) 古くは11の天降天神宮の北西1km、Pinot Gris      (糸島市志摩桜井1052)の辺り 
        なお、かつて櫻井神社には古墳があり、       岩戸宮は古墳の石室だった場所。

天降神社(新田)

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十二

その伝承場所を地図に落とすとこのような配置になります。

その中心部には可也山

以下の記載から瓊瓊杵尊が来たのは朝鮮半島の金海付近 「魏志倭人伝」でいうことの倭の伽耶韓国ということが想像されます。

参道・境内

境内前にある岐大神 これが瓊瓊杵尊のことで元になったと想像されます。

注連縄も祭る神によって様々です
狛犬
手水鉢
昔の社殿の軒瓦ですが神紋は梅(天神)です

拝殿

扁額の神紋は三五の桐です。

本殿の千木は縦削ぎ

由緒

村社 天降神社 糸島郡前原町大字新田字大堺
祭 神 瓊々杵命
由 緒 不詳,明治五年十一月三日村社に定めらる
主なる建造物 本殿,弊殿,拝殿,鳥居 以下略
新田”という地名は、四百年前、黒田長政公が干拓した初めての水田に因んでいます。由緒には干拓後、ニニギ尊を勧請したとのこと。水田地帯は広大で、三つの集落からなり、神社は求心力になっています。

このあと筑紫の日向の高千穂のくじふる峯に向かってみましょう。

瓊瓊杵尊が目指した「くしふる」とは朝鮮半島 金海伽耶(伽耶韓国)では「亀旨(クジ)峰」を表し「ふる」とは「村」のことを発音する。つまり「くしふる」は「亀旨村」を指すことばと考えられています。「駕洛国記」による駕洛=加羅の始祖・首露王降誕の伝説では、加羅地方は九人の首長が支配していたが、亀旨クシ)・・加羅の王都金海の北東にある亀山の西端の峰・・「天の命のよってこの土地の国王になるため自分は降りてきた。」とゆう伝承に従い瓊瓊杵尊も「くしふる峰」を目指したと考えられます。

伊都国の「くしふる峰」は三か所あり、山幸 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を祭る高祖山 神武天皇の伝承の残る可也山 そして天日鉾の伝承と瓊瓊杵尊を祭る雷山があります。

雷神社

境内には1000年を超える杉が神社の目印になります。

境内

注連縄は前垂れ締めです。
一の鳥居は明神鳥居
手水舎

由緒

祭神
水火雷電神(瓊瓊杵尊) 彦火火出見尊 香椎大神 住吉大神 応神天皇
由緒
社記によれば、第6代孝行安天皇より第11代垂仁天皇の御代まで、異国からの襲来が何度もあり、当社の神が大雷火となり異属を降伏させたという。
垂仁天皇がこの御遺徳を畏こんで社伝を建立、敵国降伏の神として尊崇したと伝える。
また「雷山千如寺縁起」によれば、神功皇后が三韓征伐の時、武内宿禰に命じて宝剣・宝鏡を供えて、雷山の「火水雷電神」に伏敵祈願を行ったとも伝える。
古来、女人の参拝を許さななかったとあります。
以下略

狛犬

拝殿

拝殿

本殿

本殿

千木は外削ぎです。

境内社

伽耶韓国の金官伽耶の金首露も大伽耶の伊珍阿鼓も母親は、伽耶山の神、正見母主です。
彼女は伽耶山の山神でした。そして天ノ神夷眦訶との間に生まれたのが金官伽耶の金首露と大伽耶の伊珍阿豉で山神は始祖より上位に置かれます。

道を挟んで川側には磐座と白蛇石と書かれた石碑がありますが、これも何か意味があるのかもしれません。

上宮

「雷山」は別名「曽増岐山」古来、山全体が雷神の鎮座する霊山と考えられ、故に「雷山」の名を持つという。

やはり瓊瓊杵尊は岐の神のようです。

中殿 瓊瓊杵尊 左殿 神世七代 右殿 地神五神

このうち地神五代(天照大神 天忍穂耳尊 瓊瓊杵尊 火折尊 鸕鶿草葺不合尊)が伊都国では重要な位置をしめます。

少なくとも天日鉾と瓊瓊杵尊にとっては雷山は重要な拠点であったことは間違えないようです。また古代名が曽増岐山であるのなら瓊瓊杵尊が先にこの山に来ていた可能性は否定できません。

やはり「魏志倭人伝」でいうことのヒコのニキとは、瓊瓊杵尊の可能性が高いようです。

下宮

古来佐賀と福岡の境にあり、嘗ては380もの僧房があった密教道場であったそうです。

雷山千如寺

「雷山千如寺縁起」には、風伯雨師の雷電神が一夜のうちに山を削り岩を砕き、大伽藍を造顕したという「雷音寺」の創建を伝える。次に、神功皇后が渡航遠征に当たって、雷山の主神「水火雷電神へ伏敵祈願したことが語られ」、当社が異属降伏に霊験あったことを伝える。そして、法持聖清賀という僧が怡土七ヶ寺」の第一の「霊鷲寺」を建立したことや雷山の雨請いの霊験が語られる。~中略~
その神宮寺は聖武天皇の勅願を伝え、清賀上人が開山となって建立した寺せあり、後に「千如寺」と呼ばれた。

境内の樹齢400年の楓は圧巻です。

くしふる峰から降りた瓊瓊杵尊は、伊都国のヒコつまり官として国を統治したようですが、その後 倭国大乱を機に伊都国から離れ大山祇命のいる鹿児島に向かったようです。

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