紀元前三世紀中国は秦の時代 始皇帝の命を受け一人の法士が不老不死の妙薬を探しに倭国に渡来したと伝わっています。
徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったのですが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に 仙薬を求めて渡海することを上申しました。このことは、司馬遷の『史記』にも、 東方の遥か海上に蓬ほう莱らい・方ほう丈じょう・瀛えい州しゅうという 3つの神山があり、ここには仙人が住んでいます。 童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。 と徐福が願い出たと記述されています。 始皇帝は徐福の申し出を快く受け入れ、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣 し、徐福に託したのでした。 「史記」淮南衡山列伝十より
当時秦には一隻で500名を載せることが可能な船が存在したそうです。徐福達一行は数隻に別れ黒潮に乗り倭に向かったそうです。
この図は徐福伝説が残る地域ですが、いづれも黒潮 対馬海流沿いに伝説が残っています。もしかすると数隻に分かれた徐福一行が辿りついた地である可能性も考えられるそうです。
昭和の時代に小船で徐福村から一人の女性が出港した記録が残っており、一日で唐津までたどり着いたとありますので徐福一行も数日で倭に辿りついたと考えられます。
浮盃の由来
有明海にたどり着いた一行は、盃を浮かべて流れ着いたところから上陸することにしました。この故事から人々は盃が流れついたこの地を「浮盃(ぶばい)」と呼ぶようになりました。
新北神社
由緒
新北神社は二千二百年前中国の徐福一行が浮盃より上陸され、疲れを癒す為に住まいをもうけられた跡地に建立されているようです。徐福が生活された処を地元の人たちが聖地として護り続けられました。その地に第三一代用明天皇の御代五八六年に新たに北方出雲の国、素盞鳴尊を祀り新北神社が御創立されています ~以下略~
境内
手水舎
飛龍木
この神社でひときわ目を引くのが樹齢2200年とも伝わるビャクシンの木です。この木は倭国に自生している木ではなく徐福の故郷に多く自生している木だそうです。更に云うなら樹齢は徐福が来日したと伝わる年のものだそうです
狛犬
拝殿
神紋は鍋島茗荷です。
最近拝殿を新しく新築した際に、なんと船に乗った徐福の御神体が発見されたそうです。
摂社
宮地嶽神社とあります。
配祀祭神 倉稲魂命、大山昨命、天照大神、市杵島神、武甕槌命、仁徳天皇、三女神、十城別命、岡象女神、綿津見命、鍋島勝茂(無格社合祀による)
三重の獅子舞
赤と緑の色鮮やかな獅子がドラ(太鼓)や笛の音にあわせて豪華な舞を繰り広げます。 約600年前に越後の国から肥前の蓮池に伝わり、江戸時代、鍋島公が川副郷三重の川副代官に伝授したと伝えられ、佐賀県の重要無形文化財に指定されています。 この獅子舞の大きな特徴は、二段つぎ、三段つぎという頭部の獅子使いが肩車をして舞う、曲芸的な所作にあります。
徐福は秦の始皇帝の時代の人物ですので、祖先が明確な日本の神々より時代が古いようです。もし可能性があるとするなら造化の三神に当たるのかもしれません。
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