壱岐一の宮とはこの神社のことを指すそうです。
参道
由緒・沿革
壱岐一の宮
天手長男神社 式内社(名神大)
正哉吾勝勝速日 天忍穂耳尊
祭神 天細女命 天手力男命
天手長男神社 武内式(名神大)
天手長比売神社 武内式(名神大)
物部布都神社 武内式(名神大)
若宮神社
宝満神社
さらに安産の神として粟島神社も奉祀されている。
以下略
『宗像大菩薩御縁起』によると、神功皇后の三韓征伐に際して、宗大臣(ムナカタの神)が奮戦して武勲を輝かしたという。
その時、宗大臣は『御手長』を捧げ来り、これに武内宿禰の織り持てる赤白二流の旗を付けて、軍の前陣で『御手長』を振り下げ、振りげして敵を翻弄し、最後にこの『御手長』を息御嶋(オキノシマ)に立てた。
この息御嶋は宗像の沖ノ島であり、そして『御手長』については、「異國征伐御旗杆也」とある。
これが壱岐島の「天手長男神社」「天手長比賣神社」の『天手長』の由来。
そして武内宿禰がこの「御旗杆」に付けられた「赤白二流之旗」を織ったので、織旗の神が祀られ、織幡神社の社記によると、
「壱岐真根子臣の子孫の人つたへて是を祭る」とあり、
織幡神社の社家は壱岐氏である。
この『宗像大菩薩御縁起』にある終点の息御嶋(オキノシマ)は宗像の沖ノ島でありここが御手長の終点であると考えられます。
ここから判るのは安曇磯良 中臣烏賊津使主達と武内宿禰は二方向から三韓を攻めたということが判ります。
『壱岐神名記』は若宮という、天手長男神社としたのは平戸藩の国学者橘三喜(1635~1703)であった。橘三喜は『一宮巡詣記』に「天手長男神社は壱岐国宗廟たりといへども、跡かたもなく」とし、田中の城山竹薮の中に分け入り、神鏡1面、2座の石体を堀出し石社をつくり、後世に伝えるためにと記している。延宝4年(1676)のことである。松浦藩主の命により元禄元年(1688)に初めて宝殿、拝殿ができた。橘三喜の査定は地名によると思われるのが多いとして、芦辺町の湯岳興触の興神社の地をさすという説もある。
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御手長(読み)おてなが
① 禁中などで、膳を次の間まで持って行き、給仕する人に取りついで渡すことをつかさどった者。※御湯殿上日記‐天正七年(1579)正月一〇日「御はいせん三てう中納言。御てなか頭弁かねかつ朝臣なり」② 祭礼などのとき、神に供える供物を運ぶ神官。また、その役をつとめる者。※浄瑠璃・敵討御未刻太鼓(1727)上「御手ながの町人百姓、神をまなびの俳優(わざおぎ)や」
拝殿
三ツ星は将軍紋ですので武内宿禰 三五の桐は神功皇后の紋です。
摂社
平たい石を積み重ね、一番上に大きな石が乗っかっています。
これは、百合若大臣の世話をしていた、「小鬼の墓木の葉隠れ」の墓といわれています。
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天手長女神社
天手長男神社の鳥居の正面、畑を挟んで200mほど南の森の中に向き合うように天手長女神社の鳥居が建っています。
由緒
祭神 栲幡千千姫命 稚日女命 木花開耶姫命 豊玉姫命 玉依姫命
天手長男に合祀したとあります。
なるほどそれぞれペアで祭られているようです。
系図
栲幡千千姫命は中臣氏の祖 天忍穂耳(草壁吉見)の妻であり天豊ッ姫(阿蘇ッ姫 寒川姫 杉山姫)と天忍日の母である。
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