出雲大社から海に沿って松江に向かうと小さな港が見えてきます。
出雲大社が大国主ならここに祀られているのは、その長子の事代主です。
美保神社
参道
こちらの神社は出雲大社のような空気ではなく爽やかな空気が流れています。
鳥居の横から門前町に抜けることができます。
拝殿
造り
事代主神(えびす様)の総本宮で、母神である三穂津姫命と共にお祀りしてある古大社。本殿は文化10年に造営したものであり、本殿は二殿連棟の特殊な形式で比翼大社造りまたは美保造りと云われる造りです。
由緒
祭神
三穂津媛命 事代主命
天平5年(733)編纂の出雲国風土記や延長5年(927)成立の『延喜式』にその社名があることから、
それ以前から続く歴史があるとされている。
境内の土地からは4世紀頃の勾玉や土馬が出土していて、実際は古墳自体以前から何らかの祭祀がここで行われていたことがうかがえる。
向家口伝
向家の事代主に逢うために、輿入れした沼川姫は美保の港に住んだ。しかし事代主が不慮の死に逢ったので、実家に戻った。美保の地に残ったミホススミが父君の霊を祀った社は、市恵比寿社と呼ばれている。 その西側に、向家は美保神社を創建した。本殿には妻入りの屋根をわざわざ二つ付けた。本殿から見て左の屋根には事代主をまつった。~略~
出雲王家八代の副王が(少名彦)が八重羽津身(事代主)であった。摂津の三島溝咋の娘・セヤダタラ(勢夜陀多良)姫が輿入れした。紀元前三世紀秦国から徐福(スサノオ)の集団が石見国の五十猛に上陸した。一年後にホヒと息子の武夷鳥(タケヒナドリ)が上陸し、美保の崎で釣りをしている事代主の所に諸手船に乗って使者として現れ事代主を粟島の猪目洞窟に幽閉し死んだと記されている。
出雲国風土記「夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人古より今に至るまで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」 この洞窟の辺に行くと必ず死ぬと伝わる。
分析
正直この伝承については矛盾点が多いように感じます。
- 徐福とスサノオを同一人物とする根拠が無い
- 九州に伝わる事代主命は神功皇后(七支刀より算出 紀元400年)より二世代前なので紀元300年頃と考えられる。
- この話は、紀元前三世紀と記されている。
- 三穂津媛命は事代主の母 豊玉姫(田心姫)の別名であり実父は彦火出見 義父は大巳貴で八千鉾(大国主)とは別人である。
しかし大彦 武内宿禰などの記載には、九州との共通点も多い点は、検証するに値するかもしれません。
おそらく大国主を出雲に移した時 事代主はここに移した可能性は否定出来ません。向家は口伝にある話を事代主に繋げたのかもしれません。恵比寿の総本宮が西宮(兵庫 朝倉)美保と二か所あるのが不思議でしたが、謎が解けた気がします。
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