出雲の国に神様が集まることから10月を日本では神無月と呼び、そのことから出雲では逆にこの月のことを神在月と呼びます。10月10日 国譲りが行われた稲佐の浜に神々は上陸します。
神在祭は旧暦の10月10日ですので11月3日になります。
何故出雲に神々が集まるとされたのかというと
大国主大神が天照大神に「国譲り」をなさったとき、「私の治めていますこの現世(うつしよ)の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま)あなたがお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と申された記録があります。この「幽れたる神事」とは、目には見えない縁を結ぶことであり、それを治めるということはその「幽れたる神事」について全国から神々をお迎えして会議をなさるのだという信仰がうまれたと考えられます。
まず出雲大社の参拝前に、この浜の弁天岩付近で砂を採取します。
神楽殿
摂社
神楽殿
本殿
拝殿
摂社
稲佐の浜に集まった八百万の神々はこちらに滞在します。
稲佐浜の砂は、ここで交換します。
この岩に触れることでパワーを得るそうです。
本殿
西面まで来ると案内板があり、そこには、こう記されています。
御祭神大国主大神のお鎮まりになる御本殿の正面は南向きですが殿内の御神坐は西向きとなっています。
昔より御参拝の皆様は大神様に向い合い御神坐正面から拝しております。先ず御本殿正面で御礼拝の儀 瑞垣に沿って御末社を参拝され、御正面に此の場所より再度心を籠め拝礼なさいます。どうぞ御拝礼下さいませ。 出雲大社「拝礼作法」 二拝四拍手一拝
これには瑞垣内部の社が関係していると云われています。
境内社
門神
門神社(東・西)みかどのかみのやしろ 祭神 東 宇治神(うぢのかみ)(西)久多美神(くたみのかみ) 通常でしたら 宇治神は仁徳天皇の弟菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)を指します。子に場合兎を指すのかもしれません。 久多美神は、三女神社は埋女社の分霊
御向社
天前社
『出雲国風土記』では大穴持命が和加須世理比売命に妻問いをする様子のみが描かれている。九州では宗像三女神 市杵島姫命の別名と云われます。
筑紫社
大国主大神が手間山(てまやま)で難に遭われた後、大神の火傷の治療と看護に尽くされた女神です。『出雲風土記』に記されています。
宗像三女神の一人 事代主(味耜高彦根神) 下照姫の母である。一説では、一番お気に入りの妻の方向を向いているともいわれていますが 西には神魂御子神社(筑紫社)があり大国主は九州を向いていることになります。
杵築由来
出雲風土記の杵築の郷(さと)にはこのような記載があります。
八束水臣津野命(やつかみづおみづののみこと)の国引き給(たま)ひし後(のち)に、天(あめ)の下(した)所造(つく)らしし大神(おほかみ)の宮奉(つかへまつ)らむとして、諸(もろもろ)の皇神等(すめかみたち)、宮処(みやどころ)に参集(まひつど)ひて杵築(きづ)きき。故(かれ)、寸付(きづき)と云(い)う。
出雲風土記の杵築の郷(さと)
地名由来は「出雲風土記」の神門(かんど)郡杵築郷の条に記してある所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の宮処を築いたことによる。
分析
以前訪れた元出雲と云われる出雲大神宮にはこのような記載がありました。「丹波風土紀」逸文として「元明天皇和銅年中、大国主御一柱のみ島根の杵築に移す。」更に明治四年まで出雲大社は杵築大社と呼ばれていたことが記されていました。
更に英彦山には、このような縁起が残されています。昔、大己貴命が、宗像三女神の多紀理毘売命 多岐津毘売命を連れ出雲の国から英彦山北岳にやってきた。早速、作業にかかり馬把を作って原野を開き田畑にし、山の南から流れ出る水が落ちている所の水を引いて田に注いだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大己貴命は更に田を広げたので、その下流を増田(枡田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この下流の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。
ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大己貴は北岳を天忍骨尊に譲り後 許斐山に移った。天忍骨尊は八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「英彥山」を呼ぶようになった。
更に甘木の大己貴神社には日隅宮が存在します。
近年発見された宇豆柱も鎌倉時代のもので元明天皇以前のものでないのが判明しました。
総括すると出雲大社(杵築大社)は「出雲風土記」に記載がある八束水臣津野命(大穴牟遅神)を祭神とする神社であったが 元明天皇和銅年中九州で「国譲」を行った大巳貴を合祀し、明治四年に出雲大社に名前を変えたということになるようです。
つまり「記紀」にある日隅宮は、ここではなく九州という結論になります。
コメント