ご存じの方も多いと思いますが、「記紀」元になった「出雲風土紀」に須佐之男命は地方説話に登場するのみで「記紀」のような活躍はみられません。
大己貴命に関していえば、所せ造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)と記されており須佐之男命との親子関係は記されていません。
そもそも出雲というのは国のことではなく
1,元々五つ以上の国 2.「川の河口部の三角州」 3.「いつく(厳く)」+「つま(妻、端)」で、「崖地に面する地」を指すなどの説があります。
出雲の地名は九州を始め多くの地域に存在し、「記紀」の出雲が何処の出雲のことは今となっては不明です。
元伊勢と同様 京都丹波に元出雲と呼ばれる場所があります。
出雲大神宮
由緒
出雲大神宮由緒
当宮には大国主命としの后神三穂津姫命御二柱の御神格を併せて主宰神と称で祀り他に天津彦根命 天夷鳥命を祀る。殊に三穂津姫は天祖高産霊尊の御女で大国主命国譲りのおり天祖の命により右神なり給う 天地結びの神即御縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称元出雲の所以である。
日本建国は国譲りの神事に依るところであるが丹波の国は恰も出雲大和兩勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当官である。
古来大平和御神意に拠り国と国と人総ての結びの大神を祀るとして上下の尊崇極めて篤かった崇神天皇再興の後元明天皇和銅二年始めて社殿を造営現社殿は鎌倉初期の建立にして(重要文化財)それ以前は御神体の御蔭山を奉斎し古来より尚禁足の地である御蔭山は元々国常立尊の鎮まり給ひし聖地と傅そられている。
(式内)明神退社 丹波国総社
(御階)正一位
(社名)正しくは出雲大神宮千年宮 以下略 案内版より
元出雲の別称は、出雲大社が当社から分霊とする社伝に由来する。
いわゆる出雲大社は明治四年までは「杵築大社」と称していた為、江戸時代までは出雲神社といえば当社を指していたといいます。
出雲大社との関係においては、島根の出雲大社とは別法人としている。
祭神の大国主については、社伝では、「丹波風土紀」逸文として「元明天皇和銅年中、大国主御一柱のみ島根の杵築に移す。」との記述がある。
逆に大己貴以外の親や子供達は島根の出雲大社にはいないという結論になります。
参道
はじめて見る扁額です。
大八洲國國祖神社
「日本神話」では、まだ日本になっていない将来的に日本になっていく土台のこと
境内
拝殿・本殿
神紋は亀甲に剣花菱
祭神
大国主命
三穂津姫命
鎮守の社
由緒書きによれば神社が建つ前は御蔭山が御神体で元々国常立尊を祭っていたとありました。つまりここでさえ元々の出雲では無かったということになります。
やっぱり最初は大己貴神社のようです。
大国主・大物主には縁の深い天皇です。
分析
三穂津姫はあまり聞きなれない神ですが『日本書紀』の葦原中国平定の場面の第二の一書に登場する神です。
大己貴神(大国主)が国譲りを決め、幽界に隠れた後(死後)、高皇産霊尊が大物主神(大国主の奇魂・和魂)に対し「もしお前が国津神を妻とするなら、まだお前は心を許していないのだろう。私の娘の三穂津姫を妻とし、八十万神を率いて永遠に皇孫のためにお護りせよ」と詔した。
村屋坐弥冨都比売神社(奈良県磯城郡田原本町)では大物主神とともに主祭神となっており、大物主神の后とされている。
話をまとめると大己貴神の死後、跡を継いだ大物主は高皇産霊尊に自分の娘を妻にするなら仲間に入れてやろうと迫ったということですね。しかし大己貴だけは島根に送られ祀られたという話です。
コメント