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高良玉垂神秘書 訳文

第一条 

天神七代

 第一 国常立尊 男神 第二 国狭槌尊 男神 第三 豊斟淳尊 男神 第四 泥土瓊尊 男神 婆土瓊尊 陰神 第五 大戸道尊 男神 大戸間辺尊 陰神 第六 両足尊 男神 惶根尊 陰神 第七 伊弉諾尊 男神 伊弉冉尊 陰神
その後一女三男というのは天照大神 月弓宮は伊勢の国にありという、蛭子は西宮の恵比寿である。素戔嗚尊は出雲の国大社 天照大神と素戔嗚尊は仲が悪くいろいろぶつかることがあった。天のフチという馬の皮を剥ぎ天照大神がいないとき置いていった。
天照大神西天竺より出生ともいう、移設のきなり、千八人の女西天竺より来る。人間を生む、倭国の倭の字はこれによって千八人の女と書く。
天照大神その素戔嗚尊へを持て余して天の岩戸に籠った。日の神が籠ったので日本は暗闇となった。その時五人の神楽 八人の女性 笛を吹き鼓を打ち拍子を揃えて神楽をはじめた。面白いかと思い扉を少し開いた。人影が見えたのでひたちの国の戸隠明神が扉を開いた。その時より「おもしろい」とは「面白い」と書くようになった。

天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入った。その川の川上より箸一対流れてきた、人が在ると思い、川伝いに入ると。片原に在家が見えてきた。立ち寄って見てみると、夫婦と姫一人が見えた。泣き悲しんでいるので。スサノヲ尊は尋ねてみた。「何事か?」答えは。「この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」があり。今年はわが姫に当たりました、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えなければなりません。」という。スサノヲ尊は訳を聞いて。「ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべし。」と言った、翁は答えた。「お願いします。」と喜んだ、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫云った。スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作って、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置いた。
風水龍王、人形の形が酒に映って、酒の下に人があると思い、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥した。スサノヲ尊、これをご見てトツカの剣を抜き、散々に切り。八の尾をことごとく切った。その中の一つに切れない尾があり、見ると氷のごとくになる剣あり。取りてみると、後の天照大神の三種のうちの宝剣である。この剣は近江国の伊吹山で失った。(中略)
スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まり、この宝剣を天照大神に贈呈され、たいそう喜ばれた。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りした。
(中略)
この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と名付けられた。
その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。

地神五代

 第一 天照大神 第二 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 第三 天津彦々瓊杵尊 第四 彦火々出見尊 第四 彦波瀲武鵜草葺不合尊
天照大神の御子は、四人いらしゃいます。三人は天照大神より四代までお継ぎになりました。 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の御弟は 天津彦々瓊杵尊 此御弟は彦火々出見尊 此御弟を彦ソソリノ尊申しました。このソソリノ尊は神代を継がずに海の遠くへ行った。

 ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借りて、兄の彦火々海原に出て、釣り針を海に入れた。アカメクチがこの釣針を食切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なので、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れていると塩土の翁と云うものが現れた。「吾皇子にて御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。」その御礼をするため、ナメシカゴ(目無籠)と云うものに、彦火々出見尊を連れ奉り海中に招き入れると、ほどなく竜宮界に着きました。

 これまでの事を次第に竜王に申せば、「この世界に三年逗留すれば、その間に願いをかなえる。」申せば、彦火々出見尊「そのとおりにいたします。」と答えた。竜王「諸々の魚寄せ集めよ」とアカメクチに伝えれば、しきりに寄せ集められ、諸々やってきたアカメクチのその中に、頬腫れて異なる口を開けてみれば、釣針見つかり、その釣針を密かに取り、竜宮へ納めた。竜宮の娘と彦火々出見尊へ渡し。その釣針を取り出し、彦火々出見尊へ渡すと。その釣針を受け取り、夫婦共に竜宮を出で、海上にほどなく上陸し、彼釣針を御弟彦ソソリノ尊へ返した。竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。。豊玉姫とお避けるうちは百日をまんしてよりご覧あれ、とお避けれともまじか子九十九日にあたるとき、彦火々尊、ものの隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神といは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

 皇代十五代神功皇后のとき、イルキ 日本に渡る、その時筑前四王寺の峰に上り虚空を祈った。~中略~明星天子の垂迹住吉明神表筒男七旬老翁と現れ、その御子嫡男日神垂迹表筒男、二人現れた 三男月神ノ垂迹底筒男~中略~三韓をせめ従えた 男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり 嫡男の垂迹表筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となった。男月神ノ垂迹底筒男 物部(阿部)保蓮という。別名 藤大臣 四人の皇子は仲哀天皇の皇子である、五人は藤大臣の子 合わせて九躰皇子という。妹豊姫は肥前国で河上明神となった。

 皇代十七代仁徳天皇の時、神功皇后崩御された、高良明神、豊姫、玄孫大臣 その御子大祝日往子尊 武内大臣 皇宮を共に出、武内大臣は因幡国に立ち残り、炉辺に靴を脱ぎ棄て、御衣を木の枝に掛け山の奥に入給う隠れるとこを知らすなり、残り四人は皇宮よりはるばる行き豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まりて豊姫は河上大明神となった。

 九月十三日 大祝日往子尊はその山に還り 皇宮で三種の神器を振り分けた 勾玉は高良大明神が預かった。宝剣は神功皇后 鏡は玄孫大臣が預かった。大祝は職の名で本名は鏡山という。 

 皇代四十代天武天皇の時 大祝道麻呂男子美理麻呂に御宣託があり斗藪(雑念をはらって心を一つに集めること。)し密かに来て 意見がありました。「天下の万法は ついに仏海にする 当社の明神は一人としましょう仁王経文をもって御法心有 大祝へ大明神は譲り 大井御垂迹なので束帯とつかれ高良大明神を引き換えに高良大井と名乗るように」とおっしゃった。

 異国征伐の時、干珠 満珠で国土を治め、又皇宮で勾玉を持たせていただいた間 御鳥居玉垂宮とありました。大祝鳥居には大明神正一位といいました。大祝家は今までに比類なき家である。高良大井御記文にも五姓を定めること神部物部を比せんが為なり天代七代 地神五代より大祝家の系図は定まっていました。

第二条~第一五条

一、天武天皇四十代 即位二年に託宣により下宮はそうりゅうなり。
一、異国の三韓とは新羅 高句麗 百済国
一、神功皇后には玉水をもって 退治し 文永には火をもって退治 弘安には大風を吹かせた。水 火 風の三つで神功皇后は聖母大井となった。となった。
一、水神の女 龍神の女は二人 龍神の女は厳島大明神 水神の女は宗像大明神
一、安曇磯良は筑前国では志賀 常陸の国では鹿島 大和の国では春日明神という。
一、皇后の妹は二人 一人は宝満大井 もう一人は河上大明神 豊姫
一、異国退治の時 九千は大安寺に、衣は宇佐の弥勒寺に納めた。三八〇〇〇の兵を含むと兵庫国にある。
一、皇后帰朝の後 十日 仲哀九年十二月十四日 筑前 宇美でお産し第十六代応神天皇が生まれ八幡大井となった。
一、麛坂皇子と忍熊皇子兄弟を 武内宿禰が撃った。
一、大井が百済を召具する降人百済氏に、犬の面を着せ、犬の姿を作って、三韓の皇子は日本の犬となって、本朝の御門守り給いて祀るよし毎年正月15日に是を勤める。犬の舞、今も絶えず、年中行事60余箇度のその一なり。百済の降人百済氏が犬の面をつけて、正月十五日に犬の舞を玉垂宮でおこなう。また、門の守りとなっている。犬の舞の行事は今も高良大社で続いているという。これは四世紀末から五世紀初頭にかけて、百済王族が人質となっていることを示している。
一、皇后は舟には志賀の前より乗った。
一、八幡大菩薩 他の国よりは我国 他人よりは我 宣託有ること天平宝勝年中のことである。
一、仁徳天皇 今は平野大明神といわれ 宇佐の宮では南桜の上に宣託あり。
一、皇后十三より 仲哀天皇より先に祭られた。

第四十条

住吉の御鎧 白糸 八幡の御鎧 黒糸 大井の御鎧 緋色 兜三 箱は御鎧の先に刺させ 御鎧は板にえをつけて据えて持つべし 三丈つつ置くべし。

第一四二条


彦権現は異国人で敵神なり 大菩薩 仁徳天皇の時 高良山に登る道 皇宮を出 船に乗り 先に大善寺へ行き 船を乗り換え 古い船は乗り捨てた 船の瓦を取り 大善寺大菩薩と改めた 山側を御船山 寺側を大善寺と名付けた 高良大菩薩は新しい船に乗り酒見にあがり異国追伐を任せ 風浪九十九社に寄り 船に乗り黒崎にあがり往玉ふへき方を見ると山があり 私の往壁所と仰った。御旗三流をかけると旗を上宮の上に立てた 風になびく旗先をやがて旗崎と名付けた またいつせでは三流れともいう 裏のかためにまかせ登ると瀬高一高良へ馬を控え 山の景色を見て一高良と名付けた。その後遠くに人が見え異類が攻めくると思いミサキ鳥をつかわすと、ほどなく行ってその人に行った。高良が言うには人形なのでひとかたと名づけた。彦権現 異国にいる間 彦権現とは仮のこと それより諸国彦権現をツオモイハラとした。高良の彦権現はモツハラの手先神で 一七代仁徳天皇 九月十三日にその山に帰った。

第一四三条

 大菩薩がこの山に御遷幸されて住厭に登られて「善い高山だ、よしここに住もう」と書きつけたのから高良山と名付けた。

第一五三条

 左宮 宇佐八幡宮

第一五四条 

中宮 玉垂大菩薩

第 一五五条

右宮 住吉大明神

第一五六条

善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

第一五九条

神功皇后 国長神 古父 古母 乙宮 妙見 両妙見 本地七仏の薬師也
覆面の巾 二二条 大菩薩いたき奉る次第 覆面の一疋 手袋の巾二疋 前垂れの錦一段 大井の御しとこに錦三段 御興のまわりに巻く錦九段 これを御輿巻という。

第一六〇条

 1斯礼賀志ノ命神(しれがし)弥勒さ光天皇千万人に勝つ 2朝日豊盛ノ命神(あさひとよさかり)普賢名無ま皇天皇一日の難を逃れる 3暮日豊盛ノ命神(くれひとよさかり)薬師くまる天皇一切作物虫食い逃れる 4渕志ノ命神(ふちし)文殊南無とくたつ天皇生類眷属難産逃れる 5谿上ノ命神(たにがみ)
釈迦南無らし天皇半死の難を逃れる 6那男美ノ命神(なおみ)観世音たつつかつ天皇丑午(ぎゅうば)碧玲の難を逃れる 7坂本ノ命神(さかもと)阿弥陀南無しんしょう天皇ふくひょうの難を逃れる 8安志奇ノ命神(あしき)地蔵南無たくしょうしん天皇わう難を逃れる 9安楽応宝秘ノ命神(あらおほび)大日南無一天ほうしんふかとく今生後生の助け 斯礼賀志命、朝日豊盛命、暮日豊盛命の三子は神功皇后の子で嫡子、那男美命、坂本命は妃国片姫の子である。

第一八八条

高良大善薩氏 物部同姓大祝職也 大善大祝 神代 大祝家の出と伝わる 座主 大宮司と同じと伝わる。系図よると八人神官もなし 田尻 小祝 外湯 所司代 印塚 両福成 稲員 保連の御子の子孫である。
物部を秘す。

第一八九条

物部を背いて神秘を公にすると滅亡する。

第二〇〇条

大井御誓文 物部を背き 三所三井の神秘を他姓へ知ることあらば当山滅ぶ

第二一二条

豊前国に一嶺二嶺あり。異国より異類攻めくれば三峯へ 高良三所大菩薩八日あって異類だいちあり誓いあり。またその三峯へ異国征伐の時、高良登り異類の様を観たことから高良峰と名付けられた。彦権現は仮のことで高良峰をあらいくつすべき並びの山より樋をかけて表せる間 彦嶺三百余丁 白河原にその水を持って洗い尽くす。今ではそれにより樋嶺といわれている。仲哀天皇崩御 香原垂迹とどまることから香原岳ともいう。

第二一四条

当山の一火は、大井神事の玉を 異敵攻めさせる時 皇宮に至るまで預かった。また干珠 満珠を龍宮に借り異国を平らげた この三つの玉の力 高良山一火と照らし 上宮御殿より八寺を巡り 鷲尾から瓦礫場を渡り 八葉を巡り元のように上宮御殿に祭る もしこの火消えることがあれば当山は滅ぶ 二十三日からは必ず気をつけるべし

第二一五条

麓の一火の場所は大祝居屋敷より 南の丘よりまず直ぐには馬場の堀に下宮 本躰所を巡り阿志岐 不開を巡り朝妻を渡り 矢取の前を行き瓦礫場にあがり元のように丘へとまわり、このいわれは大臣異国を攻める時 皇宮に至るまで内司所を預かっていた子 日住子命へ譲れば当山までも推進あれば今に大祝職のに伝わっている。この鏡 霊力表れて麓の一火となり衰退至るゆえに視線 人の目にかかることもある。火の丘というのは大祝職 日住子の尊の火のことで 三所の一火は金剛界 麓の一火は胎蔵界 ホウクハンを内裏へ申さ

第二三七条 

 大善寺を造ること高良山寺社始まってより、その月に大井という言葉に大きな良い寺の意味なので大善寺と名前を付けた。九月三日に滞船し上陸し五日建立あり宮をを改め、宮のかうらを捨てたので、宮さんというそうです。七日の午後より遷都を行い酒見を行い、波風の神を治め天の二十八 地の三十六 二十五有り合わせて九十九尊をおさめた。後にはほうろうこうけんと云われました。九十九尊を九十九社というようになりました。さて酒見と名を付けたのは老人は酒を飲むので酒見と名をつけました。

四日の拘留あって十日のとりの終わりより宮に召され月も入れば黒崎になる。その名前は黒崎と名付けた。三日に始まって築後のさしつを召し良い居住地を定め、九月十三日にこの山に帰ってきた。黒崎より高良山の地の月は似ているところがある。

第二四一条

表筒男尊 玄孫大臣の異国に向う時 御紋は黒龍で五巻である いりこ 脚 面 剣までありありと隠し 龍宮の孫である為である。母方である。兄弟が無いの大井の御紋 大祝職の紋 黒龍を大井の紋とすることもある。大井 大祝同体の意味である。門光を五箇所書き龍を描くように描く。

第二八一条

高良 九州のこと 天平勝宝元年牛巳 宇佐八幡宮建立により高良 九州の宗廟の司を譲った。

第三〇九条

住吉の文に桐の等を召さること、うとの岩屋にてウガヤフキアエズノミコトを産む時、産屋に桐の葉を敷き産屋の羽子板も桐の木 桐の葉を取った場所を桐嶋と名ずけた。これによって異国を攻める時も桐のたうを文として攻めた。住吉とはひこなぎさたけ(ウガヤフキアエズ)のことである。

第三一〇条

八幡の御紋 神功皇后異国追伐の時 八幡を孕み石により皇后の船の前の水の巻目を見て御紋にされた巴紋である。

第三一一条

高良の木瓜紋 神功皇后 神功皇后筑前国四王寺寺嶺において大鈴を榊の枝にたてかけ七日間異国の大赦祈った時 東の空に白雲現われ 四方に開き 光を放ち四王寺に下った 四方に開いた白雲は四天王である。中に四本の鉾を打ち変えたのは四天王の鉾である。これをとって木瓜と名付けた異国征伐の時 高良の御文とはこれのことである。四方に光を放つので門光といった。

第三一二条

宮の政所より三所大神 御輿を整えて八人の神官へ渡された。以上大井の錦は大祝の役である。宮の政所は大祝 大宮司を禁するものである。

対馬館規則のことも 異国征伐の例を学ぶとみえる。

四足の町は小弐名代である。笠懸町は大友名代 馬場町は菊池名代 御幸町 島津名代 辻固町は当国国衆 岩井町は上かういつき衆 賀輪町は下庄内衆である。

この六町半の所へ一箇所に神守屋 七つ家を造ること三の大工存する所である。これによって六町半の所は三大工を持っている。かの神守屋にはそこそこの名代衆がいる。神社は年越しに作り替える。

第三一三条

藤大臣 高良山に遷向の時、神立友ひやうくを豊前 国神籠郷を納め置かれる時 大祝日往子ノ尊 検視にてはし祀る所を鏡山と名付けた

第三一四条

阿志岐皇子 降奉天にいた。高良 すみあきにいた。すみあきとは 今の上宮のこと 皇子もやがて下りた。大祝 両宮の遷宮を取りなし 大祝もやがて耳垂より今の所に住んだ。束帯を付いた場所である。

第三四二条

高良の宮は八尺間 五間である。中の三間は 三所大井がいます。両端の二間には 一間二十四躰 四十八体の皇子である。異国征伐の時 四十八そうの船に高良四十八人と戦い それを忘れず四十八躰の皇子という。

第三五〇条

高良大菩薩皇宮におられる時、大井は月神でいるあいだ位は太政大臣正一位であり、藤大臣は異国征伐の時、干珠 満珠を竜宮に借りた時の名前である。高良山に御帰りになってより神正一位と定められた。四〇代天武天皇癸酉二月八日御神託により大井束帯を大祝に譲り大祝大明神正一位を高良大明神第一位を引き替えて鳥居に玉垂宮とうった。大祝へ譲った鳥居には大祝大明神正一位とをうった。代々井ノ文にもそのように書かれている。大祝大明神物部安何正一位、大祝家がつきてからは隠居したというが、その書はましきなり。皇代六十代醍醐天皇の時、大祝大明神物部安何正一位と書くなり。

第三五五条

始めは九躰皇子 阿志岐山の上にいた。四十八代称徳天皇景雲二年申戌年に下りた。最初の所は降奉天と名付けられた。阿志岐の山号を九形山といい寺を蓮寺と言う。

第五〇九条 

 珠満珠を龍宮にて賜ったのち、玉を龍宮から高良へ持って行き、神代(くましろ)に納められたともいう、故に神代(くましろ)を神の代と書く。また、神辺(くまべ)を神のほとりと書くなり。その玉を神代に納められた。また、河上に在るとも云う。干珠は白い玉、満珠は青い玉なり。長さ五寸ほどなり。頭は太く、尾は細いと云う。それ故に高良を玉垂宮と申すな 

第五一〇条

 高良大菩薩が百済を召具する降人百済氏に、犬の面を着せ、犬の姿を作って、三韓の皇子は日本の犬となって、本朝の御門守り給いて祀るよし毎年正月15日に是を勤める。犬の舞、今も絶えず、年中行事60余箇度のその一なり。百済の降人百済氏が犬の面をつけて、正月十五日に犬の舞を玉垂宮でおこなう。また、門の守りとなっている。犬の舞の行事は今も高良大社で続いているという。これは四世紀末から五世紀初頭にかけて、百済王族が人質となっていることを示している。

第五三三条

大善寺川に乗り捨てた船を置いたところに朝妻湊を造り この船をうわ浮きをしておいた。

第五三六条

この船のその他の言い方は早津崎という。そこは焼納めるところなり 五月七日に下船され御輿を据えた所である。

第五三七条

高良勧請は長久元年(1040年) 高良山の様体を写した。

第五三五条

高良山へ仏法始まって、高良を大善寺へ移転しうるなり、その舟の甲羅を取って御神体とするがゆえに山側を御船山という。

第五四二条

大菩薩高良に御戦功の時炭焼に旗を振って旗の先に来たところを旗崎という 旗の先に来て旗の様子を見て神代のように取って高良山の様態を神代より整えたともいう。一説には干珠 満珠のある所と定めたので神代と名付けた。神代と書いて「かみのよ」と読む。

第五五〇条

大菩薩は藤大臣であり底筒男であり物部保連でもあり、表筒男と同体である

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