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高良玉垂宮神秘書 訳文

  1. 第一条 天神 地神
    1. 天神七代
    2. 地神五代
  2. 第二条 下宮
  3. 第三条 三韓
  4. 第四条 聖母大井
  5. 第五条 龍神の女
  6. 第六条 安曇磯良
  7. 第七条 皇后の妹
  8. 第八条 異国征伐の衣
  9. 第九条 八幡大井
  10. 第十条 麛坂皇子と忍熊皇子
  11. 第十一条 犬の面
  12. 第十二条 出航
  13. 第十三条 八幡大菩薩
  14. 第十四条 平野大明神
  15. 第十五条 祭神 神功皇后
  16. 第十六条  御祭礼
  17. 第十七条  榊二本
  18. 第十八条  句役
  19. 第十九条  当山四方を固め 、神代武勢丸より始まる
  20. 第二十条 大祝一二〇日の精進
  21. 第二十一条 三所大明神は大祝家が整える 
  22. 第二十二条 覆面の巾
  23. 第二十三条  大祝精進は如何しきなり
  24. 第二十四条 一の大工 ニの大工 三の大工
  25. 第二十五条  二十日の精進
  26. 第二十六条  総の神人
  27. 第二十七条  曳下ろし
  28. 第二十八条  小祭
  29. 第二十九条  祭りの準備
  30. 第三十条  在国司
  31. 第三十一条  草野は上宮の留守職、在国司は鎮祭勝司の留守職
  32. 第三十二条  大祝の役
  33. 第三十三条  大宮司
  34. 第三十四条 座主
  35. 第三十五条 神人
  36. 第三十六条 神馬
  37. 第三十七条 住吉の神馬
  38. 第三十八条 八幡の神馬
  39. 第三十九条 大井の神馬
  40. 第四十条 高良の鎧
  41. 第四十一条  神人は頭人よりいたさる
  42. 第四十二条  七十五人三種の神人
  43. 第四十三条 七十五人の神弓持ち
  44. 第四十四条 花盛りの神人
  45. 第四十五条 鉾持ち
  46. 第四十六条 七十五人 鳶の尾の神人
  47. 第四十七条  榊葉の神人
  48. 第四十八条  日出笠の神人
  49. 第四十九条  白弊の神人
  50. 第五十条  本家 両家の座頭 手に鶸を持ち 地神の経読み通る
  51. 第七十七条 白鳳二年、嫡男の保義は社職惣官となる
  52. 第九十四条  本家 両家の座頭
  53. 第九十五条  二堂嶋の火皇 水皇を登る時
  54. 第九十六条  御弊の串
  55. 第九十七条  高良三菩薩の御輿
  56. 第九十八条  三所大井の弊
  57. 第九十九条  六十六本の弊
  58. 第一〇〇条  九十九本の弊
  59. 第一〇一条  七十五本の弊
  60. 第一二四条  八葉の石畳
  61. 第一二五条  八ヶ寺
  62. 第一二六条  七堂
  63. 第一二七条 朝妻七社
  64. 第一二八条 留主七社
  65. 第一二九条 神籠石
  66. 第一三〇条  中嶋の伊勢
  67. 第一三一条 一ノ宮
  68. 第一三二条 ニノ宮
  69. 第一三三条 三ノ宮
  70. 第一三四条  四の宮
  71. 第一三五条  五ノ宮
  72. 第一三六条  六ノ宮
  73. 第一三七条  七ノ宮
  74. 第一三八条  巡り堂は大菩薩堂
  75. 第一三九条  御手洗橋
  76. 第一四〇条  九州七社
  77. 第一四一条  同五社
  78. 第一四二条 彦権現
  79. 第一四三条 高良山
  80. 第一四四条  高良 住厭(すみあき)
  81. 第一四五条 仁徳十八代履中天皇の時、初めて仮社を造られた
  82. 第一四六条  四十六代聖武天皇神亀二年
  83. 第一四七条  四十八代称徳天皇の時
  84. 第一四八条  五十八代宇多天皇の時
  85. 第一四九条  高良の宮
  86. 第一五〇条  七十代後冷泉天皇の時
  87. 第一五一条  朝妻 下宮 伊勢 本躰所 印鑰
  88. 第一五二条  宮の御所 二戸改装を造る
  89. 第一五三条 宇佐八幡宮
  90. 第一五四条 玉垂大菩薩
  91. 第 一五五条 住吉大明神
  92. 第一五六条 善神王
  93. 第一五九条 神功皇后の父母
  94. 第一六〇条 九躰皇子
  95. 第一六一条 九州五社の次第
  96. 第一六二条 下宮
  97. 第一六三条 高牟礼
  98. 第一六四条 本躰所は高良大明神がいた場所
  99. 第一六六条 大宮司
  100. 第一六九条 本躰所は大祝が司る
  101. 第一七六条 大宮司は座主より以後
  102. 第一七七条 廻堂で出家
  103. 第一八〇条 大菩薩は仁王経の講義で出家した
  104. 第一八二条 高良内
  105. 第一八三条 五姓
  106. 第一八四条 安曇氏
  107. 第一八五条 前田氏
  108. 第一八六条 草壁氏
  109. 第一八七条 草賀部氏
  110. 第一八八条 大祝
  111. 第一八九条 物部を背く一
  112. 第一九一条 香椎宮
  113. 第一九二条 皇子児宮 志賀海神社
  114. 第一九三条 住吉宮
  115. 第一九四条 筥崎宮
  116. 第一九五条 宇佐宮
  117. 第一九六条 上荒木本山
  118. 第一九七条 三井寺
  119. 第一九八条 下宮の山号
  120. 第一九九条 三明神
  121. 第二〇〇条 物部を背く二
  122. 第二〇一条 大祝は鏡山
  123. 第二〇二条 大祝 エフクテン 
  124. 第二〇三条 大宮司は磐井
  125. 第二〇四条 座主は千田 池田
  126. 第二〇八条 託宣は白鳳十三年 
  127. 第二一二条 香原岳
  128. 第二一三条 神功皇后は阿弥陀の変化
  129. 第二一四条 高良の火
  130. 第二一五条 麓の火
  131. 第二三一条 大宮司は座主の始まり
  132. 第二三二条  三塩井
  133. 第二三三条  五地の塩井
  134. 第二三四条  九州の神々クハンショウ時は
  135. 第二三五条  九州 本社を避けず
  136. 第二三六条 白鳳十三年に御発心、二十二年に寺社始まる
  137. 第二三七条 大善寺
  138. 第二三八条  神祖 神法 御祭礼の時
  139. 第二三九条 ホウクハンを内裏へ申さず
  140. 第二四一条 表筒男尊
  141. 第二四二条  住吉の紋
  142. 第二四三条  八幡の紋
  143. 第二四四条  板持の鞘
  144. 第二四六条  九州九カ国より
  145. 第二五三条  住吉のうしろの松
  146. 第二五四条  八幡のうしろの梅
  147. 第二五五条  大井のうしろに梅 松 竹
  148. 第二五六条  住吉の扉
  149. 第二五七条  八幡の扉
  150. 第二五八条  大井の扉
  151. 第二七三条 当宮は、日本第二の御社なり
  152. 第二七四条 九州高良山麓にあり
  153. 第二八一条 九州の宗廟の司を譲る
  154. 第二九五条 ソソリノ尊ササリノ尊
  155. 第三〇〇条  四十八躰の皇子
  156. 第三〇一条  御遷宮の時
  157. 第三〇二条 住吉の結界
  158. 第三〇三条 八幡の結界
  159. 第三〇四条 大井の結界
  160. 第三〇五条 上宮へ社参の時
  161. 第三〇六条 本司は虚見の役
  162. 第三〇八条 宮町
  163. 第三〇九条 桐の紋
  164. 第三一〇条 三つ巴
  165. 第三一一条 門光の紋
  166. 第三一二条 藤大臣、日往子
  167. 第三一三条 表筒男は鏡山
  168. 第三一四条 住厭(すみあき)
  169. 第三二七条  大宮司屋敷
  170. 第三二八条 大井神馬の爪跡
  171. 第三三一条 高良神秘のこと
  172. 第三四二条 高良の宮
  173. 第三四四条 高良神楽
  174. 第三五〇条 藤大臣
  175. 第三五一条 伝教大師 宝塔を建てられた
  176. 第三五二条 高隆寺は、皇后異類征伐の御願寺
  177. 第三五三条 別所の水
  178. 第三五四条 大井の宝を納められた場所
  179. 第三五五条 九躰皇子
  180. 第三七五条  朝妻 下宮 伊勢 三明神
  181. 第三七六条  あけすの宮
  182. 第三七七条  岩井には三ッ井あり
  183. 第三七八条 瀬戸
  184. 第三七九条 中谷
  185. 第三八〇条 迎ノ山
  186. 第三八一条 中尾
  187. 第三八二条 外ノ尾
  188. 第三八三条 吉見嶺
  189. 第三八四条 北谷
  190. 第三八五条 南谷
  191. 第三八六条 舞屋
  192. 第三八七条 三角山
  193. 第三八八条 あせつ
  194. 第三八九条  留住寺
  195. 第三九〇条 鷲尾
  196. 第三九一条  尾崎林村
  197. 第三九二条  瓦礫場とは
  198. 第三九三条  北井
  199. 第三九四条  栗林
  200. 第三九五条  嶺王
  201. 第三九六条  別所
  202. 第三九七条  濡れせぬ山
  203. 第四三一条  日本三大祝
  204. 第四三二条  日本四座主
  205. 第四三三条  日本五大宮司
  206. 第四三四条  御神慮に合う
  207. 第四三五条 彦波瀲武鵜草葺不合尊
  208. 第四三六条 表筒男尊
  209. 第四三七条 表少童尊
  210. 第四三八条 中筒男尊
  211. 第四三九条 中津少童尊
  212. 第四四〇条 底筒男
  213. 第四四一条神殿 礼殿 色どり金物絵のこと
  214. 第四四二条  住吉大明神の前の垂木の金物
  215. 第四四三条  八幡大菩薩の前の垂木の金物
  216. 第四四四条  大善薩の前の垂木の金物
  217. 第四四五条  左の一間の垂木の金物
  218. 第四四六条  右の一間の垂木の金物
  219. 第四四七条  釘隠しの金物
  220. 第四四八条  組み入れ天井の鏡
  221. 第四四九条  柱は朱色
  222. 第四五〇条 内絵のこと
  223. 第四五一条  八幡のうしろ
  224. 第四五二条  大善薩のうしろ
  225. 第四五三条  南の際 
  226. 第四五四条  北の際  
  227. 第四五五条  住吉の扉の内
  228. 第四五六条  八幡の扉
  229. 第四五七条  高良の扉
  230. 第四五八条  住吉脇の二十四体の皇子のうしろ
  231. 第四五九条  八幡脇の二十四体の皇子のうしろ
  232. 第四六〇条 南の脇
  233. 第四六一条 北の脇
  234. 第四六二条 下殿の絵の次第のこと
  235. 第四六三条 北の脇二
  236. 第四六四条 外の羽板
  237. 第四六五条 中殿下殿の畳のこと
  238. 第四六六条 中殿の畳
  239. 第四六七条 中殿の畳
  240. 第四六八条 礼殿 垂木尻の金物
  241. 第四六九条 柱の金物  
  242. 第四七〇条 垂木
  243. 第四七一条 組み入れ天井の色塗料
  244. 第四七二条 四方の建具
  245. 第四七三条 東は春の様子
  246. 第四七四条  北と東にかけて
  247. 第四七五条 東と南にかけて
  248. 第四七六条 南は夏の様子
  249. 第四七七条  南と西にかけて
  250. 第四七八条 西は秋の様子
  251. 第四七九条 西と北にかけて
  252. 第四八〇条 北には冬の様子
  253. 第四八一条 その外
  254. 第五〇五条 一ノ大工、ニノ大工 三ノ大工
  255. 第五〇九条 干珠 満珠
  256. 第五一〇条 犬の面
  257. 第五一一条 高良山四方の固め
  258. 第五三三条 大善寺
  259. 第五三六条 早津崎
  260. 第五三七条 高良山の様体
  261. 第五三五条 高良を大善寺へ
  262. 第五四二条 神代
  263. 第五四五条 八人神官
  264. 第五四六条 十二人乙名
  265. 第五五〇条 大菩薩は藤大臣であり底筒男であり物部保連
  266. 第五五一条 末文 保房への三日間の託宣

第一条 天神 地神

天神七代

 第一 国常立尊 男神 第二 国狭槌尊 男神 第三 豊斟淳尊 男神 第四 泥土瓊尊 男神 婆土瓊尊 陰神 第五 大戸道尊 男神 大戸間辺尊 陰神 第六 両足尊 男神 惶根尊 陰神 第七 伊弉諾尊 男神 伊弉冉尊 陰神


  伊弉諾尊 伊弉冉尊 この二神天の浮橋の下に国が無いので天の逆矛を差し下ろし探り海原より引き上げた。矛の滴りが固まり嶋になった。その嶋に降り、夫婦で八嶋を次に草木を 次に主の物 一女三男  大日玉尊 月弓 尊 蛭子尊  素戔嗚尊 その後淡路の国に宮と造り御隠れになった。

四代より六代までは定まったが 伊弉諾尊 伊弉冉尊 天橋立で見つめあって見る時 鶺鴒を見て歌を詠まれた。「世の中にいなうせ鳥がいなければ、恋路に迷わぬ者」その後歌に「法をとくつはめもあるにいした きわれにはかなき路を教え」とおしゃった。

その後一女三男をお産みになった。一女とは 天照大神  月弓宮は伊勢の国にありという、蛭子は西宮の恵比寿である。素戔嗚尊は出雲の国大社 天照大神と素戔嗚尊は仲が悪くいろぶつかることがあった。 天のフチという馬を追いその馬に銀のひおちの下に突き立て その皮を剥ぎ天照大神がいないとき置いていった。それより外で火を焚くときは日神のそれへ火の先を包むようになった。

 天照大神 西天竺より出生ともいう、また異説では、千八人の女西天竺より来る。人間を生む、倭国の倭の字はこれによって千八人の女と書く。

 アマテラス大神その素戔嗚尊を持て余して天の岩戸に籠った。日の神が籠ったので日本は暗闇となった。その時五人の神楽 八人の女性 笛を吹き鼓を打ち拍子を揃えて神楽をはじめた。面白いかと思い扉を少し開いた。人影が見えたので常陸の国の戸隠明神が扉を開いた。その時よりその顔が白く見えたので「面白い」と書くようになった。

天岩戸の後(中略)素戔嗚尊は樋の川の奥へ入った。その川の川上より箸が一対流れてきた、人が在ると思い、川伝いに入ると。片原に在家が見えてきた。立ち寄って見てみると、夫婦と姫一人が見えた。泣き悲しんでいるので。スサノヲ尊は尋ねてみた。「何事か?」答えは。「この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」があり。今年はわが姫に当たりました、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えなければなりません。」という。スサノヲ尊は訳を聞いて。「ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべし。」と言った、翁は答えた。「お願いします。」と喜んだ、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫云った。スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作って、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置いた。

 風水龍王、人形の形が酒に映って、酒の下に人があると思い、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥した。スサノヲ尊、これをご見てトツカの剣を抜き、散々に切り。八の尾をことごとく切った。その中の一つに切れない尾があり、見ると氷のごとくになる剣あり。取りてみると、後の天照大神の三種のうちの宝剣である。この剣は近江国の伊吹山で失った。(中略)

 スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まり、この宝剣を天照大神に贈呈され、たいそう喜ばれた。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りした。(中略)この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と名付けられた。

 そのお礼として出雲の国 一国を素戔嗚尊に贈った、十月一日 日本の神達が集まり大社に集うことより日本ではその月を神無月という。しかし高良大菩薩は呼ばれないので築後では神有月という。

 その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。

地神五代

 第一 天照大神 第二 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 第三 天津彦々瓊杵尊 第四 彦火々出見尊 第四 彦波瀲武鵜草葺不合尊
天照大神の御子は、四人いる。三人は天照大神より四代まで継がれた。 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の御弟は 天津彦々瓊杵尊 此御弟は彦火々出見尊 此御弟を彦ソソリノ尊(火酢芹尊)という。このソソリノ尊は神代を継がずに海の遠くへ行った。

 ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借りて、兄の彦火々海原に出て、釣り針を海に入れた。アカメクチがこの釣針を食切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なので、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れていると塩土の翁と云うものが現れた。「吾皇子御徳を忘れず。今現れ来た。」その御礼をするため、ナメシカゴ(目無籠)と云うものに、彦火々出見尊を連れ奉り海中に招き入れると、ほどなく竜宮界に着いた。

 これまでの事を次第に竜王に云うと、「この世界に三年逗留すれば、その間に願いをかなえる。」言い、彦火々出見尊「そのとおりにいたします。」と答えた。

 竜王「諸々の魚寄せ集めよ」とアカメクチに伝えれば、しきりに寄せ集められ、諸々やってきたアカメクチのその中に、頬腫れて異なる口を開けてみれば、釣針見つかり、その釣針を密かに取り、竜宮へ納めた。竜宮の娘と彦火々出見尊へ渡し。その釣針を取り出し、彦火々出見尊へ渡すと。その釣針を受け取り、夫婦共に竜宮を出で、海上にほどなく上陸し、彼釣針を御弟彦ソソリノ尊へ返した。

 竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。豊玉姫とお避けるうちは百日我慢して御覧下さい、とお避けたが九十九日にあたるとき、彦火々尊、隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。

 嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神とは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

 皇代十五代神功皇后のとき、イルキ 日本に渡る、その時筑前四王寺の峰に上り虚空を祈った。~中略~明星天子の垂迹住吉明神表筒男七旬老翁と現れ、その御子嫡男日神垂迹表筒男、二人現れた 三男月神ノ垂迹底筒男~中略~三韓をせめ従えた 男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり 嫡男の垂迹表筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となった。男月神ノ垂迹底筒男 物部(阿部)保蓮という。別名 藤大臣 四人の皇子は仲哀天皇の皇子である、五人は藤大臣の子 合わせて九躰皇子という。妹豊姫は肥前国で河上明神となった。

 皇代十七代仁徳天皇の時、神功皇后崩御された、高良明神、豊姫、玄孫大臣 その御子大祝日往子尊 武内大臣 皇宮を共に出、武内大臣は因幡国に立ち残り、炉辺に靴を脱ぎ棄て、御衣を木の枝に掛け山の奥に入給う隠れるとこを知らすなり、残り四人は皇宮よりはるばる行き豊姫 玄孫大臣は肥前国に留まりて豊姫は河上大明神となった。

 九月十三日 大祝日往子尊はその山に還り 皇宮で三種の神器を振り分けた 勾玉は高良大明神が預かった。宝剣は神功皇后 鏡は玄孫大臣が預かった。大祝は職の名で本名は鏡山という。 

 皇代四十代天武天皇の時 大祝道麻呂男子美理麻呂に御宣託があり斗藪(雑念をはらって心を一つに集めること。)し密かに来て 意見があった。「天下の万法は ついに仏海にする 当社の明神は一人としましょう仁王経文をもって御法心有 大祝へ大明神は譲り 大井御垂迹なので束帯とつかれ高良大明神を引き換えに高良大井と名乗るように」とおっしゃった。

 異国征伐の時、干珠 満珠で国土を治め、又皇宮で勾玉を持たせていただいた間 御鳥居玉垂宮とありました。大祝鳥居には大明神正一位といいました。大祝家は今までに比類なき家である。高良大井御記文にも五姓を定めること神部物部を比せんが為なり天代七代 地神五代より大祝家の系図は定まった。

第二条 下宮

 第一五天武天皇四十代 即位二年に託宣により下宮は創建である。

第三条 三韓

 異国の三韓とは新羅 高句麗 百済国のことである。

第四条 聖母大井

 神功皇后は玉水をもって 退治し 文永には火をもって退治 弘安には大風を吹かせた。水 火 風の三つで神功皇后は聖母大井となった。

第五条 龍神の女

 水神の女 龍神の女は二人 龍神の女は厳島大明神 水神の女は宗像大明神

第六条 安曇磯良

 安曇磯良は筑前国では志賀 常陸の国では鹿島 大和の国では春日明神という。

第七条 皇后の妹

 皇后の妹は二人 一人は宝満大井 もう一人は河上大明神 豊姫である

第八条 異国征伐の衣

 異国退治の時 九千は大安寺に、衣は宇佐の弥勒寺に納めた。三八〇〇〇の兵を含むと兵庫国にある。

第九条 八幡大井

 皇后帰朝の後 十日 仲哀九年十二月十四日 筑前 宇美でお産し第十六代応神天皇が生まれ八幡大井となった。

第十条 麛坂皇子と忍熊皇子

 麛坂皇子と忍熊皇子兄弟を 武内宿禰が討った。

第十一条 犬の面

  大井が百済を召具する降人百済氏に、犬の面を着せ、犬の姿を作って、三韓の皇子は日本の犬となって、本朝の御門守り給いて祀るよし毎年正月15日に是を勤める。犬の舞、今も絶えず、年中行事60余箇度のその一なり。百済の降人百済氏が犬の面をつけて、正月十五日に犬の舞を玉垂宮でおこなう。また、門の守りとなっている。犬の舞の行事は今も高良大社で続いているという。これは四世紀末から五世紀初頭にかけて、百済王族が人質となっていることを示している。

第十二条 出航

 皇后は舟に志賀嶋の前より船に乗った。

第十三条 八幡大菩薩

 八幡大菩薩 他の国よりは我国 他人よりは我 宣託有ること天平宝勝年中のことである。

第十四条 平野大明神

 仁徳天皇 今は平野大明神といわれ 宇佐の宮では南桜の上に宣託あり。

第十五条 祭神 神功皇后

 神功皇后十三より 仲哀天皇より先に祭られた。

第十六条  御祭礼


 上代には、天下より勅使にて御祭礼なり、その後 国を家人に遣わされてから、四頭へ仰せ付けられた。国司を一人申し下る 健啖(料理をたいらげる)して御礼執り行うこと

第十七条  榊二本


 十月十二日 上宮に寺社同心に話合い 同大年の夜 九州のうちにおいてはいつも榊二本 両頭人の門に刺すこと 半国筒受け取り両頭人して、九州切りせん断して整え 総祭り整え島津への宣下である。

第十八条  句役


 四頭より 田まい 人へつ 舟は櫓楷の及ぶまで 馬は蹄のかようまで 整え制札を頭人に渡し つしつしにたてらるなり。
九州平均の句役なり 制札の書様のこと

第十九条  当山四方を固め 、神代武勢丸より始まる


 在徳田新譜の地頭 人棟東駒至西浮船津留迄所仕如件 一銭一瞬きりである 御祭礼(異筆書入)の時 当山四方を固め、神代武勢丸より始まった。

第二十条 大祝一二〇日の精進

 大祝一二〇日の精進は六月十一日より あさのかま百二十で一日一つ 精進物は百石百貫 (朝廷より勅使来る時は千石千貫 公房より 五百石五百貫 大友 菊池より行う)七日ごとに うきは一重 片平一つ 百二十日の間は銭賽ある。朝五百 昼五百 夕五百 以上賽銭は百八十貫 これを賽銭という。 飯 汁 菜菜の食い残しを七尺穴を掘り納める。

第二十一条 三所大明神は大祝家が整える 

 三所大明神は大祝家が整える 三子まで家督を継ぐ人である。くれぐれも他家を入れてはならない 昇進の時 市で野第菜を焚きとらすこと。

第二十二条 覆面の巾

大菩薩 覆面の巾 一疋 手袋の巾二疋 前垂れの錦一段 大井の子 錦三段 御神輿の前に巻く錦九段 これを御輿という。

第二十三条  大祝精進は如何しきなり


 大菩薩いたき奉るによりて大祝精進は如何しきなり、精進物も世に諮りいたさる。

第二十四条 一の大工 ニの大工 三の大工


 右の坊の墳は一の大工、右の坊の墳は二の大工がもつ 右 左でない坊は三の大工が受持つ

第二十五条  二十日の精進


八人の神官へは十石十貫づつである これは二十日の精進である 御輿の役の神人づつに分けられる。

第二十六条  総の神人


総の神人した者 銭千貫 大祝受取り神人一人づつに分けられる。

第二十七条  曳下ろし


 九月九日 ひき下ろしである。大祝は、しかとちん祭下辻では、大井の御仮と共に、大井と同じである。

第二十八条  小祭


 九月九日に小祭でも瓶子三句 用い鏡三重 十石十貫づつ三職へさっしょう頭よりせらるる。その外の寺社の衆は食堂で一日座り その日 社頭で書き始め、その日 鎮祭下辻には茅葺きの仮殿を八尺間五間につくり寺社の番屋をつくる。

第二十九条  祭りの準備


 九月九日より十月十日まで祭りの準備とする。

第三十条  在国司


 在国司は、鎮祭下辻の浮殿に十日の酉の刻より、幸行有まで番をする。天下より六十六ヶ国へ六十六人の国司を一年に一つ派遣する 在宅するので在国司という 御祭礼の検断役である。

第三十一条  草野は上宮の留守職、在国司は鎮祭勝司の留守職

 草野は上宮の留守職、在国司は鎮祭勝司の留守職である。在国司 草野は両留守職、遷宮の時も新所御社は在国司 古い御社は草野である

第三十二条  大祝の役


 宮の政所より、三所明神 御輿を整へて八人神官に渡す。以上大井の御上の儀式は大祝の役である。

対馬の館 貫具足のことも異国征伐の例を学んでいる。

 四足の町は少弐名代である。笠懸ノ町は大友名代 馬場町は菊池名代である。
御幸町は島津名代 辻固町は当国国衆 岩井の町は上かう五木衆 賀輪町は下社右内衆である。
この六町半の所へ一箇所神守屋として七家をつくること三の大工が行う。
大井の総大工であるゆえ作り替えること
幸行有時之次第ゆえ

第三十三条  大宮司


 大宮司 先に立ち 八丈測っておく

第三十四条 座主

 座主たるべし 八丈測っておく

第三十五条 神人


 神人立ち その次第である。

第三十六条 神馬


 神馬、三疋控え 三丈おく

第三十七条 住吉の神馬


 住吉の神馬 鹿毛 三丈

第三十八条 八幡の神馬


 八幡の神馬 芦毛 三丈

第三十九条 大井の神馬


 大井の神馬 栗毛縁

第四十条 高良の鎧

住吉の御鎧 白糸 八幡の御鎧 黒糸 大井の御鎧 緋色 兜三 箱は御鎧の先に刺させ 御鎧は板にえをつけて据えて持つべし 三丈つつ置くべし。

第四十一条  神人は頭人よりいたさる


 七十五人白杖持ち 七尺五寸桑の一年立ち、日本の総妙を扶桑を思う故である。その神人は頭人よりいたさる。織絵本紙に裃を着るべし、これは仮の神人

十日精進なり。

第四十二条  七十五人三種の神人


  七十五人の神弓持ち鏑矢を腰に負う 桑の木で竹を打った弓である。三潴座よりして出、支度は より烏帽子に裃である。三丈おいて

第四十三条 七十五人の神弓持ち

 七十五人の神弓持ち鏑矢を腰に負う 桑の木で竹を打った弓である。三潴座よりして出、支度は より烏帽子に裃である。三丈おいて

第四十四条 花盛りの神人

 「花盛りの神人七十五人、しきひの葉を持つ、三池郡よりより三丈おいて」

第四十五条 鉾持ち

七十五人 鉾持ち、柄 七尺五寸、身 一尺三寸、これは九人こたうなり 白い垂れに白袴なり。三丈おいて

第四十六条 七十五人 鳶の尾の神人

 七十五人 鳶の尾の神人 被り物を丸く板で作り 周りにとひのおをさす また竹で柄を七尺五寸にこしらえ 先に風車のような板をこしらえ、鳶の尾 鷹の尾を刺すべし 白ひた白袴である。これは百堂初めとして、府中の間の座の衆である。三丈おいて

第四十七条  榊葉の神人


七十五人 榊葉の神人 草野山で榊を切り 山本で七十五本を揃える時 その妙選を山本君と名付け その神人は、やがて山本より出る 榊葉のこしらえは長さ七尺五寸榊葉をつくる 三丈おいて烏帽子裃

第四十八条  日出笠の神人


 七十五人 日出笠の神人 日出笠の作法 ヒノキを持って開く葦の笠のようにまわりにひけおく ひけ笠ともいい 手にわたおく その神人は瀬高より「両部別当に白貼り烏帽子たるべし」三丈おいて

第四十九条  白弊の神人


ふ 七十五人 白弊の神人 弊串長さ七尺五寸
その神人は両西泉より致す 一方の西泉より神人三十七人 また一方の西泉より三十八人 以上七十五人 三丈おいて

第五十条  本家 両家の座頭 手に鶸を持ち 地神の経読み通る


 本家 両家の座頭 手に鶸を持ち 地神の経読み通る、人数は定まらず三丈おいて
その神人は祓いの衆 天格 座頭に至るまで大祝にお供する。上宮に上り 社はいについて大祝をさえ申すに いつくうき有りましき 白丈持ち寄り座頭に至るまでは一人づつひとならいひとならい行く 座主 大宮司衆は□□□□座主も 三百六十坊の衆を手をつける。

第七十七条 白鳳二年、嫡男の保義は社職惣官となる

 十月十日丑の刻に御輿に移し、十三日丑の刻に内殿のように移された 本躰所より御供をはり 酉の刻に登り丑の刻までは 礼殿に座り 大祝は左に座主は右に座った。大祝の手の物は大祝座の下に控え 座主の下に大宮司 その下に座主の手の物 七ハンサイのととのえである。大祝座にある酒を大祝座入れ座主大宮司の座にある酒を大祝座より入れる形である。在国司の座は直酌の間 中座である。在国司にある飯 酒も大祝 座主 大宮司の座より入れる、十日の夜 移した三職の時の座も同じである。これを酉の刻より登り座の様は共に同じである。御遷宮共に同じである。

第九十四条  本家 両家の座頭


 本家 両家の座頭は、坂本で左右へ分けて、坂井は坂枠名と贈り中腹の儀式である。これも日に三回 鐘と同じとする。

第九十五条  二堂嶋の火皇 水皇を登る時


 二堂嶋の火皇 水皇を登る時 通い輿一丁下、火皇 水皇を入れる。社家衆祓い、あとより坂本飾りの弊七十本を七十人で持ち迎え取ること その弊で坂本飾り弊とすること、又、二堂嶋のように送る時もそのようにする。寺社より十六人結界衆、大宮司より十六人祓人、回 金蘭書うす。

第九十六条  御弊の串


 御弊の串、御輿飾り 鐘飾り九本 坂本飾りの竹四本全て御弊竹とする。
神法を送る時のこと

第九十七条  高良三菩薩の御輿


 高良三菩薩の御輿 構えの内の黒弊の前に付く、住吉の旗 華鬘、住吉大明神と書く 八幡の御輿の旗 華鬘には八幡菩薩と書く、高良の御輿 高良の旗 華鬘には高良大善薩と書く。

第九十八条  三所大井の弊


 御輿の中に入れ移した弊、串一尺五寸、三所大井の弊、五弊である。

第九十九条  六十六本の弊


 六十六本の弊を、三つに分けて御輿の先に立てること、二十二本づつ

第一〇〇条  九十九本の弊


 六十六本の弊のあとより、九十九本の弊を三つに分けて三十三本づつ

第一〇一条  七十五本の弊


 七十五本の弊に山王二十一社合わせて九十六本を四つに分けて二十四本づつ左右に分けて立てるべし

第一二四条  八葉の石畳

 八葉の石畳は、八葉の蓮を表す。

第一二五条  八ヶ寺

 八ヶ寺は、仁王経 八ヶの文を表す。

第一二六条  七堂

 七堂は、クハコノ七仏を表す。

第一二七条 朝妻七社

 朝妻七社賢才の七仏を表す。

第一二八条 留主七社

 留主七社は、未来の七仏を表す。

第一二九条 神籠石

 神籠石は、八葉の石畳みをつきはじめて、又、つき納めることにより、しばらく神達がとどまることから神籠石と書いて「こうごいし」と読む。

第一三〇条  中嶋の伊勢

 中嶋の伊勢は、大井 天照大神をクハンショウ申す所である。

第一三一条 一ノ宮

 ノ宮は上の屋敷にあり、又向かい合って三明神が左右にある

第一三二条 ニノ宮

 二の宮は山田にある

第一三三条 三ノ宮

 三ノ宮は御手洗い橋の上の左にある

第一三四条  四の宮

 四の宮は、神籠石の前にあり その神 石神という 石を護る神なのでそのように書く

第一三五条  五ノ宮

 五ノ宮は大見堂の前にある

第一三六条  六ノ宮

 六ノ宮は巡り堂の向かいにある

第一三七条  七ノ宮

 七ノ宮は坂本の上にある

第一三八条  巡り堂は大菩薩堂

 巡り堂は大菩薩堂である

第一三九条  御手洗橋


 大善薩、大祝本体所用がある時、その橋で夜三 昼三 手仏を使うので御手洗橋という。

第一四〇条  九州七社


 九州七社は、天神七代を表す。

第一四一条  同五社

同五社は、地神五代を表す。

第一四二条 彦権現


大菩薩 仁徳天皇の時 高良山に登る道 皇宮を出 船に乗り 先に大善寺へ行き 船を乗り換え 古い船は乗り捨てた 船のカウラを取り 大善寺大菩薩と改めた 山側を御船山 寺側を大善寺と名付けた 高良大菩薩は新しい船に乗り酒見にあがり異国追伐を任せ 風浪九十九社に寄り 船に乗り黒崎にあがり住んでいる時遠方を見ると山があり 私の住むべき所と仰った。御旗三流をかけると旗を上宮の上に立てた 風になびく旗先をやがて旗崎と名付けた またいつせでは三流れともいう 裏のかためにまかせ登ると瀬高一高良へ馬を控え 山の景色を見て一高良と名付けた。その後遠くに人が見え異類が攻めくると思いミサキ鳥をつかわすと、ほどなく行ってその人に行った。高良が言うには人形なのでひとかたと名づけた。彦権現 異国人でいる間 彦権現とは仮のこと それより国を司ることが無かった、諸国旦那ハツオモイハラとした。高良の彦権現はモツハラの手先神で 一七代仁徳天皇 九月十三日にその山に帰った。

第一四三条 高良山

 大菩薩がこの山に御遷幸されて住厭に登られて「善い高山だ、よしここに住もう」と書きつけたので高良山と名付けた。

第一四四条  高良 住厭(すみあき)

 高良 住厭(すみあき)には三年いて 四方に八葉の石畳を一夜にかまえ、 住厭であると言い 今の所に居座った。

第一四五条 仁徳十八代履中天皇の時、初めて仮社を造られた

 仁徳十八代履中天皇の時、初めて仮社を造られた。その後 十六代武烈天皇の時、また社を作り替えられた。これも仮社である。三十七代孝徳天皇の時、仮社から余ノ国へ宮を建てる時 高良を如何めさるゆえ異国征伐の大将軍の印とした。

第一四六条  四十六代聖武天皇神亀二年


 四十六代聖武天皇神亀二年より天平九年丑丁ノ年まで十三年、順の改装造営である。

第一四七条  四十八代称徳天皇の時


 四十八代称徳天皇の時 手負いの鹿が入ってきたので、ことごとく改め、順の改装の造営であった。その時より当山は、殺生禁止となった。

第一四八条  五十八代宇多天皇の時


 五十八代宇多天皇の時、逆改装があった。逆改装とは、上宮より造り下ることである。

第一四九条  高良の宮


 高良の宮は有符の社である、五色に彩る社である。符を仮染にもちかえす、五間に定めたのは五仏を表す。妻五間に定めるのは、五躰尊である。八尺間は、仁王経二句 八ヶの文を表す、一間に十六本の垂木は、十六仙神を表す、組み入れ、天上の組れ以下は、金胎両部を表す、貫 板 楔 茎以下までも三世の諸仏を表す、上履きは神代のウガヤを表す、たとえ逆改装でも順改装のように、柱三十六本は地の三十六神を表す。

第一五〇条  七十代後冷泉天皇の時


 七十代後冷泉天皇の時、又、順改装があった。勅使は太政大臣頼通光をさし遣わした。 改装の次第

第一五一条  朝妻 下宮 伊勢 本躰所 印鑰

 朝妻 下宮 伊勢 本躰所 印鑰 一の宮より七宮まで、七堂 八ヶ寺 阿志岐 妙見 一の鳥居より三の鳥居まで 両坂本「本躰所 阿志岐 竈門は、三間社であり、その外は、ことごとく一間社であり、五社 山王 天神 留主七社社内にある一間社である。その次に本社を造り左右百八十間の柱四方にあり百八十神を表す。燈籠せいらふ調整フラフ門を建て、四十八間の渡り廊下を造った。これは四十八艘の船を表す。三十三間の妻は三十三天を表す。朝妻から上宮を造るのを順改装という 順改装の時 ことごとく小社を招集させ壁する為、逆の改装と言う。上宮より朝妻に造り下ろすのを逆改装という。」一社でも残れば改装ではない。

第一五二条  宮の御所 二戸改装を造る

 宮の御所 二戸改装を造る 一戸順 一とは逆である。

第一五三条 宇佐八幡宮

 左宮 宇佐八幡宮

第一五四条 玉垂大菩薩

中宮 玉垂大菩薩

第 一五五条 住吉大明神

右宮 住吉大明神

第一五六条 善神王

善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

第一五九条 神功皇后の父母

神功皇后 国長神 古父 古母 乙宮 妙見 両妙見 本地七仏の薬師也

第一六〇条 九躰皇子

 阿志岐九躰皇子の本地のこと 同真言の秘密である。1斯礼賀志ノ命神(しれがし)弥勒 さ光天皇千万人に勝つ 2朝日豊盛ノ命神(あさひとよさかり)普賢 南無阿皇天皇一日の難を逃れる 3暮日豊盛ノ命神(くれひとよさかり)薬師 くまる天皇一切作物虫食い逃れる 4渕志ノ命神(ふちし)文殊 南無徳達天皇生類眷属難産逃れる 5谿上ノ命神(たにがみ)釈迦 南無らし天皇半死の難を逃れる 6那男美ノ命神(なおみ)観世音 たつつかつ天皇丑午(ぎゅうば)碧玲の難を逃れる 7坂本ノ命神(さかもと) 阿弥陀南無しんしょう天皇ふくひょうの難を逃れる 8安志奇ノ命神(あしき)地蔵 南無たくしょうしん天皇わう難を逃れる 9安楽応宝秘ノ命神(あらおほび)大日 南無一天ほうしんふかとく今生後生の助け 斯礼賀志命、朝日豊盛命、暮日豊盛命の三子は神功皇后の子で嫡子、那男美命、坂本命は妃国片姫(崇神天皇の娘)の子である。

第一六一条 九州五社の次第


九州五社の次第
阿蘇十二宮 本地十一面 九州七社と申すは五社に
宝満大菩薩 本地十一面 大善大井 千栗八幡大井を
天満大自在天神 本地十一面 あい沿え申す 九州七社と申すなり。
志賀大明神 本地文殊
河上大明神 本地十一面

第一六二条 下宮


下宮本地 虚空菩薩なり 下宮三所の時 住吉八幡 下宮

第一六三条 高牟礼


高牟礼 本地地蔵菩薩なり

第一六四条 本躰所は高良大明神がいた場所


本躰所は高良大明神がいた場所で本躰所とは、元のいた所と書く秘すべし

第一六六条 大宮司

 大宮司は下記の役によって印輪を司った。

第一六九条 本躰所は大祝が司る

 本躰所は大祝が司る所である。

第一七六条 大宮司は座主より以後

大宮司は座主より以後始まる 大祝は高良神 御遷行以来の家 当社法 座主より大祝 当宮のこと大祝が決める。

第一七七条 廻堂で出家

 高良大井皇宮 その山に御遷行の時 遠路を巡り今ここに治まり。これによって初めて社参する人は その堂を巡る そこに大菩薩発心を学びその堂を造り 中ノ塔は大井御堂である。

第一八〇条 大菩薩は仁王経の講義で出家した

 正月十五日 高良大井密かに夜来て仁王堂で御法心を持ち大菩薩に意見を学んだ。八ヶ寺次第のこと 「弥勒寺安在地有り 先三味堂真諦院に有り 宝塔院 正覚寺栗林ノ内有り 又北谷に有りともいう 観音寺 勢至堂 その二寺は三井寺有り 本地院」七堂の次第

第一八二条 高良内

 大善薩その山を結界の地となし八葉の石畳みをつかせられた、その時高良内を外へ貼り、。その時大善薩御法心あって御詫宣に任せ、高良山に三百六十余坊建てた。三百六十余は三百六十余ヶ日をかけ三百六十余の内十五坊を高良内に建て座主の屋敷とした。その時から高良内と名付けられた。

第一八三条 五姓

 一、丹波氏 大宮司職 

第一八四条 安曇氏

 一、安曇氏 小祝職 

第一八五条 前田氏

 一、前田氏 下宮御倉出納職 

第一八六条 草壁氏

 一、草壁氏 御貢鰚贄人職 

第一八七条 草賀部氏

 一、草賀部氏 八人神官職の氏なり 、そのうち小磐職だけは安曇氏である。

第一八八条 大祝

高良大善薩氏 物部同姓大祝職也 大善大祝 神代 大祝家の出と伝わる 座主 大宮司と同じと伝わる。系図よると八人神官もなし 田尻 小祝 外湯 所司代 印塚 両福成 稲員 保連の御子の子孫である。

第一八九条 物部を背く一

物部を背いて神秘を公にすると滅亡する。

第一九一条 香椎宮

 聖武天皇四十五代 香椎宮 神亀元年甲子神社はじめて建立した

第一九二条 皇子児宮 志賀海神社

 天平元年己巳 志賀海神社建立

第一九三条 住吉宮

 孝謙天皇四十六代 住吉宮建立

第一九四条 筥崎宮

 醍醐天皇六十代 筥崎宮建立

第一九五条 宇佐宮

 聖武天皇四十五代 宇佐宮建立

第一九六条 上荒木本山

 託宣以後 上津荒木の青性山の枩をとり 高良山のうしろ 野山に植えられた 青性山の青の字をとり 青山と名付け 青性山の木を青山に植え替え、その時より青性山の代わりに上荒木本山と云うようになった

第一九七条 三井寺

 三井の君の総寺により三井寺と名付けた 八か寺 二寺の在る所である それゆえ結界の所である 三百六十余坊のはじめである。三井寺のはじめとして、三十六坊は寺の頭である。

第一九八条 下宮の山号

下宮の山号を田立山という 寺号を空福寺といい、昔は前田で中に田があった。これにより下宮「社司」を前田という。又山側も天竜山と名付けた

第一九九条 三明神

 大祝屋敷を三明神という 三 明らかなる神と書き高良大井と同姓であることから三所明神の神秘を残すことより三明神と名付けた

第二〇〇条 物部を背く二

大井御誓文 物部を背き 三所三井の神秘を他姓へ知ることあらば当山は滅ぶ

第二〇一条 大祝は鏡山

 大祝隠居の時の名を 三頭院という その所以は三職の頭なので隠居の時までもそういう 隠居したのちは大祝と名乗ってはならない 職の苗字ゆえ 本名は鏡山という

第二〇二条 大祝 エフクテン 

 大祝 エフクテン 四十二丁 これは屋敷に使う領地その外神領多衍か多しと神米は衣福田の総目訳である

第二〇三条 大宮司は磐井

 大宮司 ミヰテン 四十二丁 本名字磐井である

第二〇四条 座主は千田 池田

 座主 ソウクテン 四十二丁 本名千田 池田 このうちに出家座主をつく

第二〇八条 託宣は白鳳十三年 

託宣は白鳳十三年 天武天皇即位二年酉癸二月八日の御発心である。

第二一二条 香原岳

豊前国に一嶺二嶺あり。異国より異類攻めくれば三峯へ 高良三所大菩薩八日あって異類だいちあり誓いあり。またその三峯へ異国征伐の時、高良登り異類の様を観たことから高良峰と名付けられた。彦権現は仮のことで高良峰をあらいくつすべき並びの山より樋をかけて表せる間 彦嶺三百余丁 白河原にその水を持って洗い尽くす。

今ではそれにより樋嶺といわれている。仲哀天皇崩御 香原垂迹(菩薩の事)とどまることから香原岳ともいう。

第二一三条 神功皇后は阿弥陀の変化

  異国征伐の時船を造られた神功皇后 阿弥陀如来の変化である間 六十八忠背の引く判を起こし近隣苦海の主将を救い 四十八艘の船を操作された 御手長 天神七代 地神五代でと定めた 共に五色である。これは五仏を指す。舳先の五色は五躰尊不動を表す 中の船梁は金の大日 舳先の船梁は大日である。以上船梁は六本である。三軒柱は九箱 船の名は龍頭けきしと名付けた。

第二一四条 高良の火

 当山の一火は、大井神事の玉を 異敵攻めさせる時 皇宮に至るまで預かった。また干珠 満珠を龍宮に借り異国を平らげた この三つの玉の力 高良山一火と照らし 上宮御殿より八寺を巡り 鷲尾から瓦礫場を渡り 八葉を巡り元のように上宮御殿に祭る もしこの火消えることがあれば当山は滅ぶ 二十三日からは必ず気をつけるべし

第二一五条 麓の火

麓の一火の場所は大祝居屋敷より 南の丘よりまず直ぐには馬場の堀に下宮 本躰所を巡り阿志岐 不開を巡り朝妻を渡り 矢取の前を行き瓦礫場にあがり元のように丘へとまわり、このいわれは大臣異国を攻める時 皇宮に至るまで内司所を預かっていた子 日住子命へ譲れば当山までも推進あれば今に大祝職のに伝わっている。この鏡 霊力表れて麓の一火となり衰退至るゆえに視線 人の目にかかることもある。火の丘というのは大祝職 日住子の尊の火のことで 三所の一火は金剛界 麓の一火は胎蔵界 火体 水体を表す 神火のことである。

第二三一条 大宮司は座主の始まり

 大宮司は座主の始まり三代目に大祝祖始より始まる家である。大祝家より座しへ続き座主より来ることもある。

第二三二条  三塩井


 高良山 三塩井という所がある、徳間 堡塁 朝妻 この塩井の威徳は、徳間は法力を稽古しようと思うと、この塩井 朝妻は大井の弓のはすで、山際 人が掘った泉でないので、方法 世応 天法 神変 寿命 仏心 三宝までこの塩井を取るので来臨陽光される。この塩井に勝るものはない、東駒は、天狗の独鈷で掘った泉である。高良内に有り、堡塁の塩井は阿志岐にあり、この塩井は高良山に初めて出家した時 隠した塩井である。

第二三三条  五地の塩井


 五地の塩井は、朝妻 徳間 堡塁 榎津 黒崎 この五箇所の塩井を、月に一度取って祈れば、才覚 利根 知恵 満足しなんでも叶う

第二三四条  九州の神々クハンショウ時は


 九州の神々クハンショウ時は 大祝に位の弊を乞い いつでもクハンショウ申す。その儀式は天下よりの大祝家 伝わる神宮庁にみえたる。

第二三五条  九州 本社を避けず


 九州 本社を避けず 隣国までも、クハンショウするのは、大祝職にその主 写しより案内あって、社人を遣わせば、その神の位によって写しの弊を書き、大祝職よりその社の社人に渡し 大祝より社人にそえられてクハンショウの所へ遣わす。位の体は神名庁に記されている一位の神をクハンショウならば二位の写しの弊、二位の位の神をクハンショウならば三位の写しの弊、したいと心得、これによって神社共に、大祝職進退なり
一位の写し弊五弊 二位には二弊、三位、五位には乱れ弊 弊串は一尺五寸、天神七代 地神五代 天地 くはこ 件祭未来を表す

第二三六条 白鳳十三年に御発心、二十二年に寺社始まる

 白鳳十三年に御発心あり白鳳二十年 大祝職より当山に寺社を始めた 上宮に四百八十人 下宮に四百八十人 三井郡に二百四十人合わせて千二百は両部をひうせり さて大宮司職三代過ぎて 大祝職より婿をとり その孫に下築後の社人をゆずったが神ノ所は譲らなかった。そのうち大善寺 酒見 黒崎の三ヵ所司祭があるので譲られた。上築後の社人 大善寺 酒見 黒崎社人共に 大祝職へ神心 社職を禁ずる。

第二三七条 大善寺

 大善寺を造ること高良山寺社始まってより、その月に大井という言葉に大きな良い寺の意味なので大善寺と名前を付けた。

 九月三日に滞船し上陸し五日建立あり宮をを改め、宮のカウラを捨てたので、宮さんというそうです。七日の午後より遷都を行い酒見を行い、波風の神を治め天の二十八 地の三十六 二十五有り合わせて九十九尊をおさめた。後にはホウロウコウケンと云われた。九十九尊を九十九社というようになった。さて酒見と名を付けたのは老人は酒を飲むので酒見と名をつけた。

四日の拘留あって十日のとりの終わりより宮に召され月も入れば黒崎になる。その名前は黒崎と名付けた。三日に始まって築後のさしつを召し良い居住地を定め、九月十三日にこの山に帰ってきた。黒崎より高良山の地の月は似ているところがある。

第二三八条  神祖 神法 御祭礼の時


 神祖 神法 御祭礼の時に至り、田尻 こはうり役 道守は、九人こたうのあいため役である。

第二三九条 ホウクハンを内裏へ申さず

ホウクハンを内裏へ申さず ホウクハンを内裏へ申し付かること世に優れたことである。大井皇后津神あってから内裏へ申し末代までも仕えることを皇室庁と定めはたくしにつくこと天下の掟これにしくことまれである。

第二四一条 表筒男尊

表筒男尊 玄孫大臣の異国に向う時 御紋は黒龍で五巻である いりこ 脚 面 剣までありありと隠し 龍宮の孫である為である。母方である。兄弟が無いの大井の御紋 大祝職の紋 黒龍を大井の紋とすることもある。大井 大祝同体の意味である。門光を五箇所書き龍を描くように描く。

第二四二条  住吉の紋


 住吉の紋に桐を使うのは、鸕鶿草葺不合尊の鸕鶿草を鵜の羽で拭き、桐の柱を立て、桐の葉を敷いたことから住吉の紋に桐を使うようになった。域の柱も両空より二本、ウガヤの荘に立てられた。住吉とは、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊のことである。

第二四三条  八幡の紋


 八幡の紋は、巴である。皇后が異国征伐の時、八幡を孕んでいる間、水の巻を紋と定めた。

第二四四条  板持の鞘


 板持の鞘とは、異国征伐の時、太刀の板を持ったことに由来する。大井 三下宮 大祝 五所の鳥居は、地神五代を表す。その後 皇子により阿志岐鳥居が建った。この六所以外は当山では無い。

第二四六条  九州九カ国より


 九州九カ国より、衆分かけられること、当山は総山であるので、活かう最中である。衆分をかけられるいわれは、今生で初めて高居一老の司となり、後生では、長く本来の都に住むところ、衆徒一人死ねば、上宮礼殿に手充員の式あり かたじけないことである。

第二五三条  住吉のうしろの松


住吉のうしろの松のことを書く、我国開け始まる天照大神の時代、初めて松を植え、そののちいろいろな草木を植える時、住吉は地神の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊でいる間 松を手に入れすくすくと育った。人の心は変わるもので南に植える時、うしろの南に隠した。

第二五四条  八幡のうしろの梅


 八幡のうしろの梅 芦原を書く、大東はじまりの木である。異国追ばつ七帝進退により大東の例を引き、この国と東遷の心を知らす為、八幡のうしろの北へ隠した。これ遺産不出の木である。芦原を書くのは大東日本同じ心を書く、日本七種のうちである。秘すべし。

第二五五条  大井のうしろに梅 松 竹


大井のうしろに梅 松 竹を描く 柳は緑
花紅、悟りの心を書く 梅は大東 松は日本 竹 天竺不出である。つまり遊びである。これも悟りの心である。大東天竺、我中を寄せ三国扶桑の心もある。

第二五六条  住吉の扉


住吉の扉の内に釈迦を描くことは本地により右の扉の内に麗鷲山を描き、説法の学びを描く

第二五七条  八幡の扉


八幡の扉の内に阿弥陀を描くのは、本地によってである。右の扉に石や空健空描き 南無阿弥陀仏 五くうしゅうで案じるところを描く

第二五八条  大井の扉


 大井の扉に勢至土灵を描くのは本地による絵中に勢至菩薩が月神の姿で現れた、右の扉に十一面を描くのは、大東で股間大帝の時、まほうちくふうてん天竺より大東へ仏法を渡す時、仏法の守護神十一面で現れたことにより異説十一面という。これにより三国扶桑とも言う。

第二七三条 当宮は、日本第二の御社なり

 当宮は、日本第二の御社なり

第二七四条 九州高良山麓にあり

 九州高良山麓にあり、我九州人の憐みを漏らさず。祓い次第なり

第二八一条 九州の宗廟の司を譲る

 高良 九州のこと 天平勝宝元年牛巳 宇佐八幡宮建立により高良 九州の宗廟の司を譲った。

第二九五条 ソソリノ尊ササリノ尊


 彦火々出見尊の弟のソソリノノ命は、海の遠くへ行った。この弟 ササリノ尊は山の遠くへ行った。今のこの座 二座の神を重んずるゆえ住吉 高良兄弟は皇代が始まった時より、兜率天のごとく明かり有り 三光日々に現れ 三時三回そう黙祷有しなびき従うところである。これにより海 山の遠くなので、菰の座 あいもの座の別当、今ここにひうしともなり、その両座の別当 市を立て売り買いを定めた。昔の蛭兒も西宮の恵比寿となり商い堅固の守護神である。ゆえに市別当をはじめとして諸職をけぬれい位である。
秤やご託宣に徹的そこを払う記文である。油屋は大井の御膳に灯明を照らしけたいあることないゆえ 土器は六十余の祭りに土器ざんまいの祭りのゆえである。金屋は三所大井の日の時間をかしくゆえ 白籠屋 鍛冶屋 はんしょうは金物 くき 宮造りするゆえ その他かわいつき 郡省内衆 国衆どもは大井の御領の国へいること、お伴として大祝に付く

第三〇〇条  四十八躰の皇子


 四十八躰の皇子の二丁の御輿 三貫づつ六貫 新町立てるには、瀬高両中座には三貫三百、経布 白布 槍一本づつである。

第三〇一条  御遷宮の時


 御遷宮の時、地の祓いは、地神の経を読み 座頭本家 両家、苽の上の結界を法の三職 宮布 白布の上の祓い社家衆

第三〇二条 住吉の結界

 住吉の結界を勧進がする

第三〇三条 八幡の結界


 八幡の結界を学頭がする

第三〇四条 大井の結界


 大井の結界を伝法師がする。

第三〇五条 上宮へ社参の時


 上宮へ社参の時、人々石差し下に祀りおくこと、朝妻より初め、階層の次第おく、さて社内から社内の州社残らず巡り、旬にうしろのごとくまわり、大井に参る。これは異国を従え遠路を巡り高良山へ御先行を学ばれた。

第三〇六条 本司は虚見の役


 遷宮にも祭礼にも、本司は虚見の役、また一つの虚見はいなかす役である。
鎮まれ早風両よきけん脱す。

第三〇八条 宮町


 宮町建てること、日向国宮崎の庄より建て始まり、伊弉諾 伊弉冉ノ尊、一女三男を生まれた。日神 月神 蛭兒 素戔嗚尊初生の国である。蛭兒は今 西宮の恵比寿である。それゆえ日本 町の始まりは日向の国より町建て始まった。
その国々の宮町たてた、さて国々宮建てること恵比寿の初生の所を写した。残る九州八カ国は大井 高良へ遷行あって、まず高良山の麓に宮町を建て始め 次に筑前の宮 次に豊後の宮 次に豊前の宮が建った。
その国々の恵比寿を据え奉ること高良座よりの許しである。さて恵比寿を据え奉ること大祝家より尊するは、高良のはからいで九月五日に宮を開き、十五日に恵比寿をたて 二十五日市祭りをする この理由は何故かというと 大祝 大井垂蓮を受け束帯をつくので 三祭の市を進退し、国々恵比寿を据え奉ることを尊した。または九カ国クハンショウ神を神宮庁で進退の儀式も有るので、大祝家よりももたう薦の座へ弊一本、両愛者座へ弊一本 蛭兒ノ尊をクハンショウの弊 恵比寿をたて申すは広さ七尺 高さ五尺に反をつくのは、七尺は天神七代を表し 高さ五尺は地神五代を現す その二本の弊は恵比寿のそなえるにあたり弊の前に見計らい恵比寿をそなえる。また四本の弊を端の四方の隅に刺すこと これは四天王を表す。合わせて六本の弊 上下恵比寿前の締め 三本の締めは、以上ももたう薦の本座の役である。そののちあいもの本座 上町より恵比寿をイキリ立て あいもの中座は下町より恵比寿をイキリ立て祭り 同じく反の前より供える。上は男神 下は女神 薦の座三間 あいのもの三間 大祝 他国も神体方しけなくも高良大井というのは仁徳天皇十七代九十三より九州総表の尊神であるゆえ 聖武天皇四十五代天平天勝元年丑巳宇佐の宮を創立以来九州の総表を宇佐八幡に譲り 高良はその時より筑後の国を陰神となった。宇佐とは神功皇后 新羅を攻める時 孕む宮中で異国を治める時 九州総表を宇佐に譲った。両別当は紀氏 恵比寿の跡を継ぐゆえである。

第三〇九条 桐の紋

住吉の紋に桐の等を召さること、うとの岩屋にてウガヤフキアエズノミコトを産む時、産屋に桐の葉を敷き産屋の羽子板も桐の木 桐の葉を取った場所を桐嶋と名ずけた。これによって異国を攻める時も桐の旗を記しとして攻めた。住吉とはひこなぎさたけ(ウガヤフキアエズ)のことである。

第三一〇条 三つ巴

八幡の御紋 神功皇后異国追伐の時 八幡を孕み石により皇后の船の前の水の巻目を見て御紋にされた巴紋である。

第三一一条 門光の紋

高良の木瓜紋 神功皇后 神功皇后筑前国四王寺寺嶺において大鈴を榊の枝にたてかけ七日間異国の大赦祈った時 東の空に白雲現われ 四方に開き 光を放ち四王寺に下った 四方に開いた白雲は四天王である。中に四本の鉾を打ち変えたのは四天王の鉾である。これをとって木瓜と名付けた異国征伐の時 高良の御文とはこれのことである。四方に光を放つので門光といった。

第三一二条 藤大臣、日往子

  玉島川で 藤大臣、日往子 三一三条 玉島川で 神功皇后 高良 鮎を釣る時 表筒男尊がいる所 鏡山という。

第三一三条 表筒男は鏡山

 藤大臣 高良山に御遷行の時 神立御供の百を豊前 国神籠郷におさめ置く 大祝日ノ尊 検視でいる処を鏡山

という。

第三一四条 住厭(すみあき)

阿志岐皇子 降奉天にいた。高良 すみあきにいた。すみあきとは 今の上宮のこと 皇子もやがて下りた。大祝 両宮の遷宮を取りなし 大祝もやがて耳垂より今の所に住んだ。束帯を付いた場所である。

第三二七条  大宮司屋敷


 大宮司屋敷 岩井の村林という このうちに印輪社 大祝尊する気持ちあり。

第三二八条 大井神馬の爪跡

 神籠石の上に、大井神馬の爪跡の形がある。これは高牟礼に宿を借りる時、上宮より高牟礼に降る時の道で大井 神馬の蹄の形を付け これを記にして今の高牟礼の目印とした。出し抜いて八葉の石畳を四方につけば四方八方のほかに今も変わらず高牟礼いる。

第三三一条 高良神秘のこと

 高良神秘のこと二本と二ヵ所である。

第三四二条 高良の宮

高良の宮は八尺間 五間である。中の三間は 三所大井がいます。両端の二間には 一間二十四躰 四十八体の皇子である。異国征伐の時 四十八艘

第三四四条 高良神楽

 高良神楽は異国征伐の次第である。毎日おこたらず 住吉 高良 諏訪 熱田 三嶋 五人の神楽男の子を使い 皇后 河上 宝満は女の子を使う

第三五〇条 藤大臣

高良大菩薩皇宮におられる時、大井は月神でいるあいだ位は太政大臣正一位であり、藤大臣は異国征伐の時、干珠 満珠を竜宮に借りた時の名前である。高良山に御帰りになってより神正一位と定められた。四〇代天武天皇癸酉二月八日御神託により大井束帯を大祝に譲り大祝大明神正一位を高良大明神第一位を引き替えて鳥居に玉垂宮とうった。大祝へ譲った鳥居には大祝大明神正一位とをうった。代々井ノ文にもそのように書かれている。大祝大明神物部安何正一位、大祝家がつきてからは隠居したというが、その書はましきなり。皇代六十代醍醐天皇の時、大祝大明神物部安何正一位と書くなり。

第三五一条 伝教大師 宝塔を建てられた

 五十一代平城天皇大同三年戌子三年六月四日に、高隆寺の傍へ 一夜伝教大師 宝塔を建てられた

第三五二条 高隆寺は、皇后異類征伐の御願寺

高隆寺は、皇后異類征伐の御願寺である 御宣託あれば 八ヶ寺前に同じ

第三五三条 別所の水

 法躰聖人 仏法を建立された 大聖乙天 聖人に仕え 天竺無焋の池の水を袖に包まれて、山の東南に流された 別所の水はこれである

第三五四条 大井の宝を納められた場所

 戒壇のある所 別所の毘沙門天の前である。大井の宝を納められた場所であるので、本尊を毘沙門天に定めた

第三五五条 九躰皇子

 始めは九躰皇子 阿志岐山の上にいた。四十八代称徳天皇景雲二年申戌年に下りた。最初の所は降奉天(ふりほうてん)と名付けられた。阿志岐の山号を九形山といい寺を蓮寺と言う。

第三七五条  朝妻 下宮 伊勢 三明神


 朝妻 下宮 伊勢 三明神 上宮 不開 岩井 御輿休 瀬戸 御手洗橋 神籠石 中谷 迎ノ山 中尾 外ノ尾 吉見嶺 北谷 南谷 舞屋 三井寺 三角山安在地 留住寺 鷲尾 高良内 瓦礫場 北井 栗林 阿志岐 古宝殿 耳納 別所 青山
住厭 朝妻を四界の初めにとる 御祭礼の時 朝妻の上 鎮在カ辻へ行幸するのは皇后 異国征伐の時、兜率天より浄土へ天下を学び 鎮在ヶ辻へ行幸ある。朝妻四界の初め上宮を兜率天とする秘すべし

第三七六条  あけすの宮


 あけすの宮は、祭礼、又は神田いのこを借り、彼宮開けて通す、八月初卯へ九十九千のお供を大祝家より本躰所へあけ渡す祭りである。ひかいり酒、又はひかいりしろすというものを作り

第三七七条  岩井には三ッ井あり

 岩井には三ッ井あり、これにより岩井川という、又その三井をかたどり三井の郡という

第三七八条 瀬戸

 瀬戸というのは、大井 当山に御遷行の時 その場所で高牟礼をささえ抑えて登ったことより瀬戸と名付けられた

第三七九条 中谷

 中谷とは、中の谷なので中谷と名付けられた

第三八〇条 迎ノ山

 迎え山というのは、大井その山に御遷行の場所に梵天 帝釈 四大天皇 十二の菩薩 諸神 諸仏 その山に来迎して待った場所から迎ノ山と名付けられた

第三八一条 中尾

 中尾とは、中の尾なのでそのまま名付けられた

第三八二条 外ノ尾

 山より外にあることから外ノ尾と名付けられた

第三八三条 吉見嶺

 吉見嶺とは大井 そこよりご覧になり 九躰皇子のいる場所が良く見えたことにより吉見嶺と名付けられた

第三八四条 北谷

 北谷とは、道より北にあることから名付けられた

第三八五条 南谷

 南谷とは、道より南にあることから名付けられた

第三八六条 舞屋

 舞屋とは、昔は上宮まで行かず、そこで神楽を舞ったことから名付けられた 中比は坂本で神楽があり参拝も坂本まで参拝した

第三八七条 三角山

 三角山とは、三山の三の角なので三角山と名付けられた

第三八八条 あせつ

 あせつとは天上人九人、神役を務めることによりあせつと名付けられた

第三八九条  留住寺

 留住寺とは大井御師 渡宋の日 しばらくそこに滞在したので留住寺と名付けられた

第三九〇条 鷲尾

 鷲尾とは、八葉の内 天竺鷲嶺を移し そこに死人を置き成仏し、八葉の内にはくれぐれも置いてはならない、いずれも結界のところなので鷲尾と名付けられた

第三九一条  尾崎林村

 高良内は、昔は尾崎林村といった

第三九二条  瓦礫場とは

 瓦礫場とは、大井束帯でいる時、つう手を表したところである。

第三九三条  北井

 北井とは、宮より北にあたるので北井と名付けた

第三九四条  栗林

 栗林は、栗が多く立っていたので、そのまま栗林と名付けられた。

第三九五条  嶺王


 嶺王とは、高良山の最初の名前である。

第三九六条  別所


 別所とは、天竺無熱池水を流し、又は階段のある所なので別所という。

第三九七条  濡れせぬ山


 濡れせぬ山とは、五十八代光孝天皇、仁和元年巳乙年 太政大臣ふさ継勅使を遣わし、御祭礼を執り行う時、国土に雨が降り、高良山も雨降り濡れども当山 殊に行幸の道が濡れる 濡れせぬ山といった。勅使それを見て、いよいよ他不徳といい、やがて奏聞あり。

第四三一条  日本三大祝


 日本三大祝 高良山大祝 諏訪大祝 熱田大祝である。

第四三二条  日本四座主


 日本四座主 高良座主 比叡山座主 石山座主 彦座主である。

第四三三条  日本五大宮司

 日本五大宮司 高良大宮司 伊勢大宮司 熱田大宮司 宇佐大宮司 阿蘇大宮司

第四三四条  御神慮に合う


 大祝職を続ける間 死を御神慮に合うという 一ノ御利者という 隠居して死ぬのを二ノ利者という それを如何にいう 職を続ける間に死ぬことを、大口 狩衣 差し抜き 立烏帽子 灼 その仕度で、又は槍は神御輿のようにこしらえ、四方に鳥居を立て 鳥居の際はいかきをし、先は擬宝珠である。締め引き木を四方立て、これも先は擬宝珠である。四ノ鳥居の四万木には、鏡を打ち、四方の祓い手の上には燕を据え、上の升かたには鳳凰を据え、四方の祓い手には旗 華鬘をさくる。送るのは、本躰所の前に一時据え、又、伊勢の前に上宮に向け一時ほど棺を据える。又、下宮の橋を越えてかき据える。これらは上宮 下宮 本躰所へお別れである。その後、遠くへ送る。これを一のし脱かという、隠居してより、支度 棺の準備は、大祝職を着いている時の死は同じことである。高良 本躰 下宮へお別れを言わず。これにより隠居の時死ぬのを二ノ稜と言う。大祝長男と言えども職に着かずに死ぬのは支度も棺の準備も如何にするか棺のえつの次第

第四三五条 彦波瀲武鵜草葺不合尊

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神でその御子に住吉五神がいる

第四三六条 表筒男尊

表筒男尊 日神垂迹玄孫物部大連は大祝家の始まりである

第四三七条 表少童尊

 表少童尊は女神である

第四三八条 中筒男尊

 神武天皇のこと 守屋大臣は神武天皇の変化である これをもって大井兄弟という

第四三九条 中津少童尊

 女神である

第四四〇条 底筒男

 月神垂迹大井のことである

 住吉とは明星天子垂迹のことで その子 表筒男尊 日神垂迹底筒男 月神垂迹の三神は三光によって虚空に住んだ、仁皇十五代神功皇后のの時、異国から異類が来て四王寺嶺に皇后が天に祈ると、次男中筒男尊がその地にとどまり神武天皇と名乗った。彦波瀲武鵜草葺不合尊は三人が男子 二人が女子で住吉五神といい 嫡男表筒男尊 大祝の先祖 次男中筒男尊 神武天皇 三男底筒男尊 高良大菩薩 住吉三男と名乗った。皇代用明天皇の皇子 聖徳太子は仏法の人で守屋大臣は法のさわりとなるが仏法を許した。

 高良大井 大祝先祖 守屋大臣 兄弟というのは守屋は神武天皇の変化ゆえ今又 ここに現れたので聖徳太子は天竺では高貴徳皇仏 大唐では南岳大師 日本では聖徳太子である。皇釈迦を学んだ。高貴徳皇仏 釈迦舎利を学んだ人で 法意の尊さを重んじ その高貴徳皇仏は神武天皇と同意仏と解釈し 高貴徳皇仏は聖徳太子に生まれ 神武天皇は守屋大臣と生まれて法力をあらわした。聖徳太子は「如我苦」といった 守屋はは「今者満足」と答えた。

第四四一条神殿 礼殿 色どり金物絵のこと


 垂木は、朱 又垂木尻の金物のこと

第四四二条  住吉大明神の前の垂木の金物


 住吉大明神の前の垂木の金物は桐のこと。

第四四三条  八幡大菩薩の前の垂木の金物


 八幡大菩薩の前の垂木の金物の紋は巴のこと。

第四四四条  大善薩の前の垂木の金物

 大善薩の前の垂木の金物の紋は木瓜のこと。

第四四五条  左の一間の垂木の金物


 左の一間の垂木の金物の紋は出船のこと、異国征伐を表す。

第四四六条  右の一間の垂木の金物

 右の一間の垂木の金物の紋は、入船のこと、唐より日本の帰国を表す。

第四四七条  釘隠しの金物

 釘隠しの金物は皆門光のこと、小釘は花ノミのこと、三社の文

第四四八条  組み入れ天井の鏡


 組み入れ天井の鏡は白、組み入れの他の縁は六周 組み入れの縁は朱色

第四四九条  柱は朱色


 柱は朱色、貫は黒漆、柱の金物 笠は二口

第四五〇条 内絵のこと


 住吉のうしろは野づちを描いて、松原を描く、野づちのの向こうに海を書くこと

第四五一条  八幡のうしろ


 八幡のうしろは、野づちを描いて、梅を描く、これも海を描くこと、夜にすること

第四五二条  大善薩のうしろ


 大善薩のうしろは、海 杉 竹が密生した所を描く 手長 足長 足長の海を探しているところを描くこと、月を取ろうとしているところを描き、足長は海を渡ろうと描くこと

第四五三条  南の際 


 南の際は、天格の能をしているところを描き、傘の上に高瀬をたて、高瀬の上にちこをのせているところを描く、同中の衆の人を描くこと筆にまかせ

第四五四条  北の際  


 北の際は、賀茂の競馬を描くこと、その他は筆にまかせること

第四五五条  住吉の扉の内


 住吉の扉の内には、謹迦を描くこと、扉の面には松に鶴を描いて、下に野づちを描き、翔淵の神馬を描くこと、石の扉には灵鷲山の姿を描く

第四五六条  八幡の扉


 八幡の扉の内には阿弥陀を描くこと、扉の面には梅に鶯描き下に、芦毛の神馬を描くこと、石の扉には石灼空けしくうを描くこと

第四五七条  高良の扉


 高良の扉の内には、勢至を描くこと、扉の面には十一面を描くこと、扉の面には、竹に虎を野づちを描く、栗毛縁の神馬を描くこと、内の石の扉は十一面を描くこと

第四五八条  住吉脇の二十四体の皇子のうしろ


 住吉脇の二十四体の皇子のうしろは、満々とした海を描き、虎の体描き、扉の内には善神王を描くこと、扉の面には海に船を描き異国へ向うところを描く、扉の面には獅子駒を松を描くこと

第四五九条  八幡脇の二十四体の皇子のうしろ


 八幡脇の二十四体の皇子のうしろには、海を描き日本艇を描くこと、扉の内には、これも善神王を描くこと、面には海に船を描いて、異国より帰朝のところを描くこと、八幡の扉の面には獅子駒を描き梅を描くこと

第四六〇条 南の脇


 南の脇には、海を描いて、それに亀の法花経を加えて、浮き上がるところを描くこと

第四六一条 北の脇


 北の脇には、海を描いて手長は、天上の月を取ろうとしているところを描くこと、足長は西の海を渡ろうとするところを描くこと、その他は筆にまかすこと

第四六二条 下殿の絵の次第のこと


 南の脇には、異国煙るところを描くこと

第四六三条 北の脇二


 北の脇には、異類の海に浮き沈むところを描くこと

第四六四条 外の羽板


 その外の羽板には、春野 秋野に花の咲き乱れるところを描くこと

第四六五条 中殿下殿の畳のこと


 内殿の畳は、下2畳は、高麗縁 上一畳は、錦縁 その上三重かさごとする。

第四六六条 中殿の畳


 中殿の畳、これも三重かさごとする。

第四六七条 中殿の畳


 中殿の畳 高麗縁 二重かさごとする。
礼殿も、神殿と同じになるようにする。組物、又は、組み入れ天井 その他変えてはならない。

第四六八条 礼殿 垂木尻の金物


 礼殿 垂木尻の金物無紋とする。

第四六九条 柱の金物  


 柱の金物 逆鰐口とする。

第四七〇条 垂木


 垂木は朱色、柱も朱色 貫長押は黒漆、貫刺し長押先の金物 逆鰐口 釘隠し金物 星金物

第四七一条 組み入れ天井の色塗料


 組み入れ天井の色塗料、御殿と同じ

第四七二条 四方の建具


 四方の建具には、四季を描き、並びに日本国中を映すこと

第四七三条 東は春の様子


 東は春の様子を描き、五畿内、五国の様子、皇宮を奉り、都の景色 名所 旧跡 残らず描くこと

第四七四条  北と東にかけて


 北と東にかけて、角に東海道十五ヶ国を写すこと、名所 旧跡を描くこと

第四七五条 東と南にかけて


 東と南にかけて、角に東山道八カ国を写すこと、名所 旧跡を描くこと

第四七六条 南は夏の様子


 南は夏の様子を描いて、南海道六カ国を写すこと、これも、名所 旧跡を残らず描くこと

第四七七条  南と西にかけて


 南と西にかけて、角には山陰道八カ国を写すこと、名所 旧跡を描くこと

第四七八条 西は秋の様子


 西は秋の様子を描いて、角には西海道九カ国を写すこと、名所 旧跡残らず描くこと

第四七九条 西と北にかけて


 西と北にかけて、角には山陽道八カ国を写すこと、名所 旧跡、残らず描くこと

第四八〇条 北には冬の様子


 北には冬の様子を描くこと、北陸道七カ国を写すこと、名所、旧跡を描くこと

第四八一条 その外


 その外、柱楼 渡桜 妻桜 籠門 坂本 社内小宮までも彩ること

第五〇五条 一ノ大工、ニノ大工 三ノ大工

 住吉 高良 大祝先祖表筒男尊三人へ、皇后がいうには、船を造ることと住吉 高良 表筒男尊三人集め、先、化人三人出現、三人を表した、今の一ノ大工、ニノ大工 三ノ大工である。一ノ大工は住吉彦波薙武ノ時、召し抱えられた大臣を表し ニノ大工は神武天皇の時召し抱えられた大臣である。三ノ大工はその時二人の大臣を遣わした大臣である。これにより今でも三ノ大工は大善薩の大工とし、二人の司である。大井三男でいる間、当山では三番目上がる、又、住吉 八幡 大井と言うのも三番目である。その三人の大工、神功皇后の時、現れた三人を今ここに表す、この三人に船を造るようにいい、住吉 高良 表筒男尊先のことくましきたまい、先 百人剣士 その後二百人現れた。合わせて三百人現れ、皇后 早く船を造ろうとした、三人の大工引き受け、長門国船木山の材木を足し、豊前宇佐郡で四十八艘の船を造った。三ノ大工、始まるところを表す。

第五〇九条 干珠 満珠

 干珠満珠を龍宮にて賜ったのち、玉を龍宮から高良へ持って行き、神代(くましろ)に納められたともいう、故に神代(くましろ)を神の代と書く。また、神辺(くまべ)を神のほとりと書くなり。その玉を神代に納められた。また、河上に在るとも云う。干珠は白い玉、満珠は青い玉なり。長さ五寸ほどなり。頭は太く、尾は細いと云う。それ故に高良を玉垂宮と云う。    

第五一〇条 犬の面

 高良大菩薩が百済を召具する降人百済氏に、犬の面を着せ、犬の姿を作って、三韓の皇子は日本の犬となって、本朝の御門守り給いて祀るよし毎年正月15日に是を勤める。犬の舞、今も絶えず、年中行事60余箇度のその一なり。百済の降人百済氏が犬の面をつけて、正月十五日に犬の舞を玉垂宮でおこなう。また、門の守りとなっている。犬の舞の行事は今も高良大社で続いているという。これは四世紀末から五世紀初頭にかけて、百済王族が人質となっていることを示している。

第五一一条 高良山四方の固め

  高良山四方の固めの左室を 住厭(すみあき) におさめた。

第五三三条 大善寺

大善寺のこと高良大井 たいとう あれなれ河と云う所より 御皇子と共に、筑前宇美に着いた。それから皇后と共に京都に上った。皇后の崩御ののち仁徳天皇十七代に大善寺の前の川に着いた。はじめて着いた所なのでたいとうおうこして川の名前をとってそこを有成川と名付けた。船を捨て置き この川の端にある黒崎に舟を造り酒見に上がり ホウロウコウケンを始めた。九十九社の最初の定め、大井 高良へ先行して造った。又 酒見より黒崎に御皇子を召し寄せ高良山の徳を先行した。乗り捨てた船を納めた所を黒崎大明神とあがめた。黒い木で造った船なので黒崎と名付けた。

第五三六条 早津崎

この船のその他の言い方は早津崎という。そこは焼納めるところなり 五月七日に下船され御輿を据えた所である。

第五三七条 高良山の様体

高良勧請は長久元年(1040年) 高良山の様体を写した。

第五三五条 高良を大善寺へ

高良山へ仏法始まって、高良を大善寺へ移転しうるなり、その舟のカウラを取って御神体とするがゆえに山側を御船山という。

第五四二条 神代

大菩薩高良に御戦功の時 住厭(すみあき) に旗を振って旗の先に来たところを旗崎という 旗の先に来て旗の様子を見て神代のように取って高良山の様態を神代より整えたともいう。一説には干珠 満珠のある所と定めたので神代と名付けた。神代と書いて「かみのよ」と読む。

第五四五条 八人神官

 八人神官は十二人の乙名である。大祝のうちその司を受ける役である。 八人神官とは田尻 小祝 外ノ湯 所司代 印塚 両福である。 稲員これは神輿役である。

第五四六条 十二人乙名

 十二人乙名は小野 栗林 厨 弓削 野中 枝光 高野 久留米 本司 大隈 国府 上津荒木

第五五〇条 大菩薩は藤大臣であり底筒男であり物部保連

 大菩薩は藤大臣であり底筒男であり物部保連でもあり、表筒男と同体である

第五五一条 末文 保房への三日間の託宣

 御祭礼 天地開け始まり閉めるまで 末世未来あるべきまでも語る間 大祝職神津麿尊保房しんもつつあるべきまでも、あるいは憤死までも取り集め書きつけた。老人の言葉に大祝職へ問答したためにカタカナに、問うておさめた。言葉を頂くのに袖を控え「如何なるケシンである。」とある。仁徳十七代九月十三日この山に遷行したものである。かき消すようにいわれ九月十一日より十三日のことである。高良のお言葉を「高良記」という。この書 他に渡ることあれば奈落に落ち見なくなること疑い無し。 御礼祭時の勅使このことこのこと天下に申さなければ御判いたします。この半紙長さ三尺三寸 三十二点 横一寸は皇位と一妙を秘す。

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