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高良大社 高良玉垂宮神秘書

福岡県

参道

ニノ鳥居

築後一の宮、延喜式内名神大社、旧国幣大社。
当地は高良山の酉の山復にあたり、「神籠石」の列石が周囲を囲んでいる。
 祭神は高良玉垂命、八幡大神、住吉大神。履中元年(400)年の創建と伝わる。延歴14年(795)に従五位下に叙勲さられてから、事あるごとに神階を進め、弘和9年(818)名神に列し、寛平9年(818)には正一位を授けられた。
 山下の石造り大鳥居は、承応4年(1655)二代藩主有馬忠頼公の寄進。本殿・幣殿・拝殿は万治3年(1660)三代藩主有馬頼利公の寄進で社殿の重要文化財。高良大社文書十巻十巻一冊、絹本著色高良大社縁起(絵縁起)二幅は県指定文化財。社有地のほとんどは「史跡高良山神籠石」として国の史跡指定を受けている。

高良山地図

中腹部分に多くの摂社がありますが、とりあえず高良大社まで進みます。

三ノ鳥居

境内から築後平野が見渡せます。

御由緒

御由緒
御祭神 左殿 八幡大神
正殿 高良玉垂命
    右殿 住吉大神
御神徳 延命長寿 開運厄除
    家内安全 商売繁盛など生活万般
御由緒 高良の大神は悠久の昔から筑後川の流域に生活してきた人々が、その生活守護の大神様として奉持してまいりました築後圀一の宮であります。御社伝創建は履中天皇元年で西暦四〇〇年と伝えています。また、朝廷の御尊崇も厚く国幣大社として勅使の御参幸も始められました。江戸末期までは神仏習合の思考のもと天台の僧徙多数奉仕し、山内に二十六ヶ寺三百六十防もあったということです。

国指定重要文化財 建造物・御神殿・拝殿(権現造・万治三年・西暦一六六〇) 石造大鳥居(明神鳥居) 
史跡 高良山神籠石
書籍 神本墨書 平家物語(覚一本)
福岡県指定文化財 高良大社所蔵文書一件 絹本着本高良大社縁起
天然記念物 境内大樟          案内版より

境内

八葉石残欠

「八葉石」とは高良山において神籠石古名、この碑には高良山神籠石由来第五十世座主寂源僧正によりその発掘の経緯禅僧法雲明洞(小倉広寿山福聚寺第二世)が選した高良山八葉石記の全文と五十七世座主亮恩僧正が大石に刻ませて建てたもの神籠石発掘の記念碑として日本考古学史上に重要な意義を持つ、もと参道入り口ニノ鳥居近くにあったが明治初年神仏分離の際破却が碑石は社頭手水舎の大水盤に転用されている。
高良大社案内版より

手水舎
神門や

拝殿

神門

神紋は高祖神社 飯盛神社と同じ四木瓜

虹梁には龍

ここからだとわかりにくいですが八葉の鏡にみえます。

本殿の千木は外削ぎ

神輿

神輿は三基

住吉大神神紋は五七の桐 神使いは鶴

高良玉垂命 四木瓜 神使は鳥

八幡大神 左三つ巴 神使いは鳩

本殿内には御客座があり豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されているそうです。

高良玉垂神秘書

由緒書を補足するのが秘中の秘と言われている「高良玉垂神秘書」「古事記」「日本書紀」より古く天代七代 地代五代から筑紫の君 磐井 天武天皇まで記されています。

高良玉垂神秘書 第一条
 天照大神の御子は、四人おわします。三人は天照大神より四代まで継ぎたまう 正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の御弟をは 天津彦々瓊杵尊 此御弟をは彦火々出見尊 此御弟を彦ソソリノ尊申したてまつります。このソソリノ尊は神代を継ぎ給わざる故に海の遠くへ参らせ給うなり。

  ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借り給いて、兄の彦火々海原に出給いて、釣り針を海に入れ給う。アカメクチというもの、この釣針を食切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なれば、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れて立給う所に塩土の翁と云うもの、着たり曰く。吾皇子にて御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。その御霊を申さんとて、ナメシカゴ(目無籠)と云うものに、彦火々出見尊を連れ奉り海中に招き入れれば、ほどなく竜宮界に着き給われる。

 竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり給えり、豊玉姫は妊婦となり臨月となり給う。産所を造り給えと仰せければ、鵜羽をもって葺き給う。葺き合せている最中に出産給う。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と申すなり。

 これまでの事を次第に竜王に申し給えば、応えていわく、この世界に三年逗留されれば、その間に願いを達して申すと云いければ、彦火々出見尊そのとおりに致す、と仰せられる。
竜王「諸々の魚寄せ集めよ」とアカメクチに伝えれば、しきりに寄せ集められ、諸々やってきたアカメクチのその中に、頬腫れて異なる口を開けてみれば、釣針見つかり、その釣針を密かに取りて、竜宮へ納め給う。竜宮の娘と彦火々出見尊へ渡しまいらせけり。彼釣針を取り出し、彦火々出見尊へ渡らせまいられけり。彼釣針を受け取りて、夫婦共に竜宮を出で、海上にほどなく揚がり給いて、彼釣針を御弟彦ソソリノ尊へ返し給いけり。

 玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になり給う。彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神なり、その御子住吉五神といい二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命と申すなり。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男と申すなり 次男神武天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男とあります。

境内社

このことにも記載があります。

皇代十五代神功皇后のとき、イルキ 日本に渡る、その時筑前四王寺の峰に上り虚空を祈り給う。~中略~明星天子の垂迹住吉明神表筒男七旬老翁と現れ給う、その御子嫡男日神垂迹表筒男、二人現れ給う 三男月神ノ垂迹底筒男~中略~三韓をせめ従え給う 男月神ノ垂迹底筒男ノ尊 皇后と夫婦となり給う 嫡男の垂迹底筒男は皇后の御妹 豊姫と夫婦となり給う。男月神ノ垂迹底筒男 物部(阿部)保蓮と申したまう。別名 藤大臣 四人の皇子は仲哀天皇の皇子なり、五人は藤大臣の子 合わせて九躰皇子なり。妹豊姫は肥前国で河上明神となり給う~中略~安曇磯良は筑前国では志賀 常陸の国では鹿島 大和の国では春日明神          ~以下略

つまり表筒男は武内宿禰 中筒男は神武天皇 底筒男は安曇磯良 物部(阿部)保蓮ということになります。住吉大社の住吉神代記に神功皇后が住吉大神と「密事」があり、俗に夫婦の間柄になったという伝承も大阪の住吉大社付近の地名が阿倍野である理由もこれで理解できます。

三韓征伐後大宮司は武内宿禰であり、王の印を預かっていたようです。

まだまだ摂社や奥宮の説明には至りませんがあとは別記事でご紹介いたします。

分析

「記紀」では親子ですが「高良玉垂秘書」では天照大神の息子は四人いて正哉吾勝々速日天忍穂耳尊 天津彦々瓊杵尊 彦火々出見尊 彦ソソリノ尊と記しています。更に塩土翁(大幡主)も彦火々出見尊を息子と呼んでいます。

この書には「海幸 山幸」の話は存在せず 彦火々出見尊と豊玉姫の出会い 出産が記され二人の息子彦波瀲武鵜草葺不合尊の本当の名前は住吉大神で住吉三神の父であると記しています。

更に住吉三神 長男 表筒男は淀姫と結婚 次男 中筒男は神武天皇 三男 底筒男は安曇磯良 藤大臣で神功皇后と結婚したと記されています。

しかし疑問点もあり

  1. 神功皇后 武内宿禰 神武天皇 藤大臣が同時代の人間
  2. 高皇産霊神がいつ山を盗まれたか?

判ったこと

  1. 仮に神功皇后の三韓征伐が好太王碑の391年~404年とすると同年代の高良玉垂命の三代前が彦火々出見尊となり卑弥呼の時代と重なります。
  2. 舞台は彦火々出見尊を祭る伊都国の高祖神社でここでも卑弥呼と天日鉾と同じ場所に存在したことになります。
  3. 彦波瀲武鵜草葺不合尊の本名が住吉大神で五人の子供がいた。
高良玉垂宮神秘書同紙背

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