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高良大社 摂社 赤司八幡宮 奥宮 

福岡県

では高良大社の摂社をご紹介します。

摂社

愛宕神社

高良山 愛宕神社御由緒
御鎮座 久留米市御井町礫山
御神徳 防災の神、牛馬の守護神、交通安全、
商売繁盛の神、旧藩時代には藩主有馬家で毎月一日代参があり、地元御井町
始め市内通町・築後地域には霊験談も伝えられています。
御由緒 愛宕神社は京都府愛宕山の神さまで、火伏せ、火難除けの神として広く信仰されています。特に牛馬の守護神としても篤い信仰を集めています。寛文11年(1671)、現在地に鎮座されました。              案内版より

拝殿

大学稲荷

大学稲荷神社
御鎮座 久留米市御井町字宗崎(通称稲荷山)
御祭神 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
御由緒 筑前・筑後(正しくは筑後)稲荷十社第一の社といわれ、
この地方で最も著名な稲荷神社である。
上社と下社に同一神を祀る。
上社が本来の大学稲荷。 明和8年(1771)2月、時の高良山座主寂信僧正が京都伏見稲荷から「大学」の称号を持つ稲荷神を勧請したものである。   案内版より

狛犬
拝殿

赤司八幡宮

参道

高良山から少し離れた場所なのですが、本当の下宮といわれているのが赤司八幡宮です。

注連縄が独特です。

御神木
手水舎
赤司の歴史
狛犬

拝殿

龍神の一族ですので龍の彫刻ばかりです。

拝殿

本殿

千木は外削ぎ 鰹木も奇数 本当の神は高良大神ですね!

御井町惣廟 赤司八幡宮
御祭神(祭神三座・相殿十一神)
左 興止比咩命 高良大神 中道主貴 止興比咩命 八幡大神 右(三女伸)息長足姫尊 住吉大神

由緒

由緒書きに関しては、宮司様が書いたものを転用します。

築後圀御井町郡惣廟 赤司八幡神社御由緒
 築後国御井郡(現在福岡県久留米市北野町赤司)に鎮座する赤司八幡神社は、縁起(「止興比咩神社縁起」)によると、神代の昔天照大神様が御子神の道主貴(比咩三女伸)を筑紫平野の中心部・築後川中流域の河北の地(筑紫の道中)に降居せしめられたのが始まりと伝えています。

 第十二代景行天皇十八年(西暦八八年)、天皇は道主貴の宮を蚊田の地(「和名抄」にみえる御井郡加駄郷伊=元北野町稲数)に建て国乳別命(水沼別の始祖)に祭らせました。これが筑紫の水沼君等古代豪族の祭る「筑紫中津宮」で赤司八幡宮の最も古い名といわれています。

 「筑紫中津宮」の御祭神、道主貴は「本朝の征夷大将軍・鎮守府大将郡の起源」といい「天孫の奥統を助け、君神の位を賜らざるように道の授けになられた神勅「汝三神、宜しく道中に降臨して天孫を助け奉り天孫の為に築かれよ」にも見えるように、この日本の国「鎮護国家」の神様の始めと考えられます。

 神功皇后は「筑紫中津宮」の蚊田の地(蚊田宮・「応神記」)において応神天皇を御出産。その後、宇美八幡宮で御誕生祝をなされたといわれます。また、神功皇后は妹の豊比垟命を「筑紫中津宮」に留め、西海の鎮護にあたらせました。このことが当社を「豊比咩神社」とよぶ要因と思われ、社名の変更は平安時代初期と考えられます。

 豊比咩神社(赤司八幡神社)は、延喜式内名神大社として官社に列した由緒深い大社であって、この頃河北の地築後国司の郡朝臣御酉の伝説が残り、椎間国史殺害史葦原良積が「官府」を建てたとあることから、ここに「築後国府」の存在も考えられ政治・経済・宗教の大中心地となっていったようです。

 平安時代延長二年(九二四年)、豊比咩神社の相殿に山城国(現京都府)の岩清水八幡宮より麓わた八幡大神・高良大社・住吉大神を勧請し「御井郡惣廟」(部内五七ヵ所の神を摂社に)として合祀したと言います。現在、この延長二年の勧請合祀が赤司八幡神社の創建年代と考えられていますが、さらに遡ることすでに述べたとおりです。

 日本三大河川の一つ・九州一の大河築後川中流域の湾曲部一帯港北の地は古代より重要な地域として勢力者の争いの場所となり、豊比洋神社に深く七重の築地を高くめぐらして神社を守護しました。これが赤司に城が築かれる所以といいます。この堀を館堀・菊池堀と呼び「赤司八幡系図」には、肥後国(現熊本県)の菊池氏の祖である葦原政則・則隆が豊比洋神社の大宮司として名を連ねており、ここに移住していたようです。

 豊比洋神社の全盛時代は、平安時代の白川天皇の頃と思われ、「築後国豊比洋大神九州二島惣鎮守なり。」と官民あげて崇敬されていました。豊比洋神社が衰えていくのは戦国時代で、崇敬を寄せていた九州守護大名の大友家の中で、キリシタン大名となって神社を焼き払った大友宗麟と本朝鎮守神を祭る当社社人神との争そいの中で、宗麟の密を防ぐ為、豊比洋神社の社号を八幡宮に、社人の姓水間を藤原姓に変えたと伝えます。

 この戦国時代の乱世の事件が後世、豊比洋神社が八幡宮と呼ばれ続けた原因と思われます。特に江戸時代の初期、式内名神大社で官社である由緒深い豊比洋神社は、式外の私社の神社に並ばされたと縁起は落胆しています。久留米藩「社方開基」には「御井町惣廟赤司村□わた八幡宮」と書かれてあり、現在の大城・金島・太刀洗地域の神社三十社を受け持つとされています。江戸時代(約三百年間)において、久留米藩・有馬家の崇敬、寄進の跡が見えず                    ~以下略~
赤司八幡神社社務所                       由緒書きより

摂社

大三輪神社
少彦名神社
池王神社 天満神社 祇園神社
恵比須神 猿田彦大神

ここは水間の君の本拠地です。

水間氏
大和政権の一員として筑紫地方を支配していた豪族で「日本書紀」によれば景行天皇と襲武姫との間にうまれた国乳別皇子を始祖としている。

奥宮

高良大社奥宮(奥の院)
 古くは「高良廟」「御神廟」と称し、高良の神である武内宿禰の葬所と伝えられていた、高良山信仰の原点ともいうべき聖地である。付近の地名を「別墅(所)」といい、白鳳七年(六七八)開山隆慶上人が、毘沙門天(高良の神の本地)を感見して毘沙門堂を建て、天竺無熱地の水を宝力で招き寄せたのが、この清水であるという。
 鎌倉時代の貞永元年(一二三二)には、惣地頭代刑部丞中原為則なる者が、五重の石塔をここに建立したというが、現存しない。次いで南北朝時代には、征西将軍懐良親王の御在所になったとの説もある。
中世末の記録によれば、ここには戒壇が設けられていたとある。恐らく現存の石積の壇をさすのであろう。壇上には室町時代の石造宝塔が建つ。
 江戸時代の中期頃、山中の極楽寺を再建した僧即心は晩年ここに籠って無念修行したという。
明治初年の神仏分離により、毘沙門堂は「水分神社」と改められたが「あらゆる願いを叶えてくださる神様」として、高良大社の数ある末社の中でも、特に厚い信仰を集めている。
高良大社社務所 案内版より

初寅祭の案内板

現在の高良大社は武内宿禰を主に祭っており、嫡男と表記されるのは高良玉垂命の兄弟 淀姫を娶った為に嫡男といわれているようです。二男の神武は、別の神社でご紹介します。

この伝承を見る限りでは、水間氏の始祖は武内宿禰と与興比咩のようです。もしかしたら同一人物のことかもしれません。

高良玉垂宮神秘書同紙背

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