スポンサーリンク

高良大社下宮 高樹神社

福岡県

この神社に「古事記」「日本書紀」における間違いを訂正する鍵が記されており、古代から伝わる「高良玉垂神秘書」を読み解くことが古代日本史の真実の姿を公にしてくれるものと考えます。

大鳥居

有形文化財(建造物) 大鳥居
久留米市御井町三七三・三六九
昭和四十七年五月十五日 国指定
鳥居の語源には諸説あり、はっきりしませんが、一般には神社の門であると言われています。
この大鳥居は高良大社の一の鳥居で、高さ六、八一m、柱間四、五mで花崗岩製の典型的な大形の明神鳥居です。
 石材は武の郡石垣村(現浮羽郡田主丸町)の花崗岩を切り出し、藩内の十五才から六十才までの男子延べ十万人によって、耳納山地の山裾を運ばれました。
額字は徳川将軍家の菩提寺である東京上野寛永寺の門主の筆によるもので、安永二年(一七七八)七代藩主有馬頼徸の寄進によるものです。
久留米教育委員会  案内版より

下宮

この鳥居をくぐり右にそれると小さな鳥居が目に入ります。

まっすぐぬけると普通の村社ぐらいでしょうか? 神社が見えてきます。

由緒

祇園(ぎおん)さんについて
高良下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400)の創建と伝えられています。通称ぎおんさんと呼ばれています。上宮を拝する山麓に鎮座し、平安時代には国司の司る名社で鳥居には「高良玉垂命」と書いてあります。南北朝時代の天慶3年には征西将軍懐良親王が願文を納められたことは有名であります。久留米藩有馬家入国に際して社領が寄進され府中(御井町)の氏神となりました。現在の社殿は安政5年10月府中氏子中によって建立されたものであります。中央に高良下宮社、向かって右に幸神社、左に素戔嗚神社(祇園社)があります。
 幸神社は孝元天皇を祀る社で子供の病(特に疱瘡)霊験著しいとの信仰があります。素戔嗚神社は通称「祇園さん」と親しまれ、夏祭りには子供みこしで賑わいます。下宮の境内には神仏習合時代神宮寺であった空福寺があったと伝えられております。また社殿の裏には我が国の修験道の開祖役行者像が祀られております。なお境内社として粟島神社があり女性の病に霊験ありと伝えられております。        案内版より

高良下宮社

祭神
孝元天皇
高良玉垂命
素戔嗚尊

高良玉垂下宮社は上宮(高良大社)と同じく履中天皇元年(400)あるいは天武天皇の白鳳二年(六六四)の創建といわれています。
 上宮を遥拝する位置にあり平安時代には國司を司る名社で「高良玉垂下宮」と呼ばれていました。南北朝時代の天慶三年(一三七七)征西将軍懐良親王が当社に願文を納められたことは有名です。         ~以下略~      案内版より

「福岡県神社誌中巻」高良下宮社 村社では
祭神 高良玉垂命 左 物部膽咋連命物部 右 武内宿禰
境内社 素戔嗚神社(素戔嗚尊) 幸神社(大倭根子彦国牽天皇) 天満神社(菅原神社)

更に「高良山雑記」には物部胆咋の身体(木像)を鏡山神社から高良下宮に移したとあり 武内宿禰は脇神に移動 更に幸神の祭神は物部胆咋夫人とあります。

境内

扁額

狛犬

拝殿

中央 由緒書 高良玉垂命 福岡県神社誌中巻 高良玉垂命 高良山雑記 物部胆咋 神社誌中巻より

左殿 由緒書 素戔嗚尊 福岡県神社誌中巻 物部膽咋連命物部 

由緒書 右殿 孝元天皇 神社誌中巻 武内宿禰 高良山雑記 物部胆咋夫人(伊佐姫(いさひめ))

物部胆咋
物部胆咋は「日本書紀」に記載がある豪族で物部十千根の子で 武内宿禰 中臣鳥賊津と共に仲哀天皇の大臣の一人のようです。

粟島神社 祭神 少彦名

御神木

素戔嗚神社(素戔嗚尊) 幸神社(大倭根子彦国牽天皇) 天満神社(菅原神社) 恵比須

役行者

猿田彦大神

石碑には高良宮宿禰神室加輪神姫高貴古墳嬪七坪四方形博永代爲之家運息斎又爲後世史歴矣とあります。要約すると高良宮宿禰の妻 加輪神姫古墳七坪四方形の墓であるを伝え長い繁栄と家運息斎を伝えるとあります。

もしかして武内宿禰の妻 水間の君の祖 佐賀の川上与興比売のことじゃないでしょうか?

祇園山古墳

すぐ近くには祇園山古墳があります。祇園山古墳は三世紀の古墳であり一説には邪馬台国の卑弥呼の墓ともとも伝わる古墳です。

祇園山古墳
久留米市御井町二九九-二一九他
福岡県指定史跡昭和五三年三月二五日
 祇園山古墳は、古墳時代前期に築かれたと見られる古墳です。墳丘形態は方墳(平面形が方墳の古墳)で、規模は東西約二三.七メートル、南北約二二.九メートル、高さ五メートルを測ります。墳丘は本来の地形を形成した上部に盛土を行うことにより構築されており、墳丘裾部と上段の盛土部分には葺石が確認されています。
埋葬施設は、墳頂部のほぼ中央に納められた箱型石棺です。石棺の大きさは、底部付近で長さ約二メートル、幅約九〇センチメートル、深さ約九〇センチメートル、棺内には葺石も含めて朱が塗られていました。石棺は古い時代に盗掘を受けたと見られ、内部からの副葬品の出土はありませんでした。
 祇園山古墳は、現在久留米市内で確認されている古墳の中で最も古い段階に築かれた首長墓です。
祇園山古墳の墳丘外周からは、発掘調査時に甕棺墓三基、石蓋土土壙墓三二基(未調査五、不明二を含む)、箱式石棺墓七基、竪穴式石棺一三基、不明七基の埋葬施設が確認されています。また、第一号甕棺からは」、銅鏡片・勾玉が出土しています。
                                現地説明版より

高良大社の摂社は数多くありますが、その中でもこの神社は高良大社創建にかかわる特別な伝承があるのでご紹介します。

高樹神社

高良大社の麓にあるこの神社は、高良大社創建に係る神社です。

扁額は高樹神社

元の御神体かもしれません。田?神だけ読めます。

由緒

高木神社は高皇産霊神(造化三神の一)。
古くは高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史の名に現れる神社)で「三代実記」元慶二年(八七八、十一月十三日の条に筑後国高樹神二殿五位上ヲ授クとあり、やがて正五位下に進んだことが天慶七年(九四四)の「築後国内神名帳」によって知られる。
もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が籠石を築いて結界(区を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのもこの神に因むものである。
明治六年(一八七三)十一月十四日郷社に列し大正十一年(一九二二)神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ )に指定された。

つまり「記紀」に載っている造化三神の高皇産霊神とはこの神のことで、高良山に住んでいたということです。

狛犬

拝殿・本殿

拝殿

本殿の千木は外削ぎ神紋は下がり藤です。

どの年代に高良の神が高良山を奪ったかをしるしることが「記紀」の年代指定に繋がるはずです。

高良玉垂宮神秘書同紙背


コメント

タイトルとURLをコピーしました