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住吉三神

福岡県

裂田の溝

「日本書紀」巻第九の「神功紀」によれば,神功(じんぐう)皇后は新羅出兵の際,勝利を祈るため神田開発を行った。その神田に水を引くため傲河(現在の那珂川)から取水するために掘らせた水路が裂田の溝とされている。さらに「神功紀」には裂田の溝の名の由来が書き記してある。それによれば水路を迩驚岡(とどろきのおか)まで掘り至った所で大盤石(おおいわ)が行く手をふさぎ難渋したそうだ。そこで神功皇后が武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて神祇を祀り祈らせたところ雪が轟き大盤石に落ち,石は裂けて水が神田に通じるようになったという。このことから裂田の溝(うなで)と呼ぶようになったと伝わっている。

このように記されている裂田の溝ですが、福岡県那珂川市に実際に存在しているのです。

裂田の溝の物語

まず「日本書紀」にある裂田の溝を説明するのに物語が現地にあったで画像でご紹介します。

簡単にいうならば三韓征伐前に自国(奴国)の灌漑事業を行った場所でありこの場所には多くの遺跡が発見されており弥生中期に大きな集落があったことが判ります

裂田神社

この裂田の溝を囲むように古代から多くの神社が存在します。

由緒

裂田神社
裂田神社は安徳、宇竜頭にある。裂田の溝を記念して神功皇后を祀ってある。朱塗りの拝殿は間三間、入二間、絵馬がところせましと奉納され、その奥に神殿がある。神殿の扉には菊花の紋章がある。境内には明治三十九年の鳥居をはじめ狛犬、注連掛石などが、杉の老木や古い株と並び、裂田の溝が周りをめぐっている。
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たき ごもりをする。
(社)つくし青年会議所以下略 案内版より。

実はこの神社 底筒男(開化天皇)と神功皇后が暮らした住居とも伝わっています。

そしてそれを裏付ける神社が下流に存在するのです。

現人神社

別名 住吉神社 本津宮

現人神社の鳥居
この鳥居は明神鳥居で那珂川の領主 黒田靱負重実が元禄の頃寄贈したとあります。
その横には住吉三神誕生之地と記されていますが、数年前来た時はありませんでしたが、新設したようです。

境内

鳥居をくぐると最初に鎮座するのは、注連石 猿田彦大神です。

手水舎が現在コロナの影響で使用できません。

御由緒 並びに御神徳
御祭神
住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。   以下略 案内版より

拝殿

神紋は左三つ巴 安曇磯良の神紋です。

昔は御朱印帳も無かったのですが、新調したようですがデザインがワンピースっぽいですね!

摂社

六一神社
祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、速玉男尊(はやたまおのみこと)、豊受姫尊(とようけひめのみこと)、軻遇突智尊(かぐつちのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)とありますが大体一六ならば 地録 埴安彦 十八ならば 大国主だったと思います。

薬祖 祭神 少彦名 天満 菅原道真

金比羅 大物主

そして中筒男 崇神天皇

更に那珂川の下流に向かっていくと中宮が存在します。

日佐住吉神社

日佐住吉神社

境内

この石碑は先祖を敬う石碑で梵字でバク(釈迦)と読めるそうで、福岡地域では春日白水と太宰府の観世音寺に有するのみで(鎌倉・室町)時代のものだそうです。 案内板より

手水舎

由緒

日佐住吉神社の由来

日佐とは、上日佐に百済・下日佐に漢の訳語(通訳)の住んでいたところとして有名であるが、平成十二年外環状線建設のための日佐遺跡の発掘調査によって、此の地から先土器時代の遺物や縄文土器等が大量に発見され、明の時代の中国製輸入陶器や平安末期から室町時代の集落跡も発見され、此の地域は六千年もの太古から先進的な人々が住んでいたことが考古学的に証明された。神社の御祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の住吉三神の外、香椎大神・若大神・高良神を祭る。
又、明治四十四年上日佐の天神にあった地禄神社(埴安比売神)を合祀している。神社の起源等を記した古文書は明治初期の竹槍一揆で消失したが 元禄六年に創建された旧社殿の棟札等の記録をもとに、明治の始めに松田敏足氏によって書かれた「日佐住吉神社御由来考」によれば
筑紫国、郡の津口に宮家(博多区恵比)が造営されてより、此の地方は中国大陸や、朝鮮半島との外船の往来するところなり、日比はその応接の要地であったため、その航海の安全や鎮守の神として筑紫郡那郡に住吉三社が居かれ、(上社は那珂川町の現人神社・下社は博多区の住吉神社)当社は、中津瀬の神として祭られたもので、その起源は宣化天皇の御宇(五三八年)の前後であると記されている。
以下略 現地案内版より

拝殿 本殿

これは判りやすいですね。表筒男 中筒男 底筒男 神功皇后 住吉大社と同じ配置です。
地録天神は櫛田宮の大幡主 塩土翁です。

千木は外削ぎ 神紋は左三つ巴

摂社

素戔嗚神社

遥拝所

絵馬堂
最近この絵の意味も判ってきました。松は筑紫 鶴は物部 彦火々出見 亀は豊玉姫 翁は大幡主 嫗は天照?のようです。

分析

現人神社の情報、

 摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらると有ります。
つまり摂津の住吉大社と博多の住吉神社の和魂は、ここ現人神社から分霊したものとあります。
 この住吉神社は姪浜住吉神社が鸕鶿草葺不合尊(住吉大神)の上陸地点だとすると一世代後の住吉三神の誕生の地であり姪浜を除けば最古と云っていいのかもしれません。

日佐住吉神社の情報

  1. 地禄神社は埴安比売神を祭る神社である。
  2. 筑紫国、郡の津口に宮家(博多区恵比)があった。
  3. 日佐とは通訳の居住区であり、古代より大陸との交易の応接の要地である。
  4. 現人神社 日佐住吉神社 博多住吉神社は宣化天皇の時には上・中・下宮であった。

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