筑紫神社

福岡県

有明海から上陸した五十猛は佐賀県基山の契山を経由して筑紫に入ります。

参道

こちらも荒穂神社同様長い参道を抜けていきます。

二の鳥居

参道沿いに稲荷神社

狛犬は全体的に丸い感じです。

三の鳥居

五社神社

五所神社 祭神 神徳

須佐之男命(スサノオノミコト) 疫病退散の神・水の神・森林の神
櫛稲田姫(クシナダヒメ) 稲田の神
菅原道真公(スガワラミチザネコウ) 学業の神
伊邪那岐大神(イザナギオオカミ) 御親御神・創造神・父神・夫婦の神
少彦名命(スクナヒコノミコト) 国造りの神・医療の神・農耕の神
由緒

五所神社は大正四年に原田・筑紫村内にあった無社格五社が筑紫神社の境内に移転されてできたものである。その五社とは
須賀神社(原田字榎本)(須佐之男命・櫛稲田姫)
須賀神社(筑紫字栗木)(須佐之男命)
菅原神社(同字城山)(菅原道真公)
須賀神社(同字倉良)(須佐之男命)明治十二年(一八七九)創建
天満神社(同字太郎丸)(菅原道真公)弘文二年(一八四五)創建である。
昭和四年に御租神社(ミオヤジンジャ)(筑紫神社境内内社)(伊邪那岐大神・少彦名命)創建不詳が五社神社へ合祀される。

神紋の注連縄は出雲系のようです。

神紋の狛犬は石の質が違うのか赤茶です。

境内

手水舎

石碑
遥かな古代
筑前、築後を合わせて「筑紫の国」と名づけ
九州を「筑紫の島」とさえ称した。
ああ、かくも大いなる筑紫。
ここはその発祥地であり中心地である。
ここ筑紫のまほろばに鎮まる産土の神は
われわれの遠い祖先の喜びであり
現代のわれわれの誇りであり
われわれ子孫が受け継ぐべき聖域である。

猿田彦群 

拝殿の神は三柱

本殿

神紋は花菱 

実はこの神紋は糸島の高祖神社や飯盛神社の木瓜と同じ神紋です。
木瓜の真ん中のところだけご覧ください。
同じ花菱です。
これは偶然ではないのです。

須佐之男命も木瓜ですが、五木瓜(福井 織田明神)です。
須佐之男命の直系はみなこの紋のようです。
この後御紹介する須佐之男命の神社の時、注意頂くとわかります。

由緒

筑紫神社
祭神・神徳
筑紫の神(ツクシノカミ)
玉依姫(タマヨリヒメノミコト)
坂上田村麿(サカノウエノタムラマロ)

由緒
祭神を筑紫の神といい筑紫の国魂である。奈良時代の「築後風土紀」の神話によると「筑紫と築後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を行きかう人を多く取り殺していた。その神は人の命尽(イノチツクス)の神と呼ばれていた。後にこの神を祀って 筑紫の神と呼ぶようになった。」とされ奈良時代以前から当社に在ったと推測される。筑紫野の語源は、当社の神号から起こった。
筑紫の神が 白日別神・五十猛という説もあるが断定できていない。後世に玉依姫(竈門神社より勧請)坂上田村麿を祭祀した。
当社は延喜式神名帳(九二九)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた・・・以下略
案内版より

「築後風土紀」に三つの地名由来がのっている。
1、筑前築後の間の山に険しく狭い箇所があり、往来の人は乗っていた鞍「革+薦」〔シタクラ〕を磨り尽くされた。民人はクラツクシの坂と呼んだ。

2、この堺の上に麁猛神がいて、往来の人、半ば生き、半ば死んだと言う。その数いたく多かったという。よって、人の命尽しの神と言った。時に、筑紫君と肥君が占い、筑紫君の祖甕依姫を祝して祭らせた。それより以降は害はれなかったと言う。これを以て筑紫の神と言う。(瀬藤注)五十猛は勇猛神とされているが、麁猛神と呼ばれている説はここしか知らない。

3、その死んだ者を葬るために、木を切って棺輿を造ったので、山の木尽きてしまった よって筑紫の国と言う。

「古事記」には
次に筑紫嶋を生みたまひき。此の嶋も身一つにして面四つあり。故、筑紫国を白日別と謂ひ、豊国を豊日別と謂ひ、肥国を建日向日豊久士比泥別と謂ひ、熊襲国を建日別と謂ふとあり、これが筑紫=白日別=五十猛の元になったこ考えられます。

五十猛は『筑前国続風土記』にも、元社と思われる基山の荒穂明神について、「五十猛神なるべし、瓊瓊杵尊とは俗の付会せる説なるべしといへり。」と記されていて、五十猛が瓊瓊杵尊であると記してあります。

瓊瓊杵尊とは五十猛のことなのでしょうか、木花開耶姫と出会ったのは契山なのだろうか? それとも「古事記」にある伊都国の岐の神瓊瓊杵尊ことなのでしょうか? それは五十猛が向かった飯塚のくしふる峰 馬見山に伝承が残っていますのでそちらで御紹介しましょう。

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