糸島の芥屋の大門には伊邪那岐の禊の伝承の他に天女の伝説 「神武天皇が加也山に上り国見をし、大門で禊をした。」等の伝承が残っています。
大祖神社の本当の祭神 塩土翁には山幸に竜宮城を教えた他に神武天皇に関しても伝承があります。
日向(ひむか)にある天皇に青山(せいざん)の四週する大和(やまと)の存在を教えます。「神武即位記」より
降臨した天孫に「国ありや」と問われて「国あり」と答えた笠狭御崎(かささのみさき)の事勝国勝神(ことかつくにかつのかみ)の亦名(またのな)としています。「日本書紀」より
古来より博多湾を挟んで西の飯盛山を女山といい伊邪冊を祭り、東の若杉山を男山といい伊邪那岐を祭るとあります。
その東の若杉山に芥屋の大門にあった大祖神社と同じ名前の神社が存在します。
太祖神社 下宮
こちらの神社は大ではなく太いの文字を使います。
下宮
神紋は菊の中に太いの文字
由緒
太祖神社
祭神 正殿 伊弉諾命
左殿 天照皇大神 志賀海大神 住吉大神
右殿 八幡大神 聖母大神 宝満大神
例大祭 四月十四日 春季例大祭
十月十六日 秋季例大祭
一月三日 元始大祭 七月十日 日籠祭
二月十七日 祈年祭 八月七日 七夕祭 上宮
七月上旬 初申祭 十月二十三 新嘗祭
境内神社 北山神社 祭神 大国主神 上宮
日吉神社 祭神 大山咋神 下宮
山ノ神社 祭神 大山祇神 古堂
境内地 一八、八五一、五四坪
氏子 若杉区
宮司 内川道臣
由緒
祭神伊弉諾は神代よりの御鎮座なり その歴史は古きお寺にて国土を化成し万民の始祖としますが故に神功皇后の三韓御征伐の節春稚宮にて大臣武内宿禰を召して異敵征伐の御廟算あらせられし諸神を祈り祭り給えと御神託有りしかば中略皇后終りに報斉として山頂に社殿を改造し給いを始めとし上古に至り伊弉諾を中座とし右側に八幡大神 聖母大神 宝満大神を祀れり
慶長五年黒田長政公と当国を領せしより郡の業廟として崇敬厚く明治五年十一月三日に郷社に明治二十九年五月四日に県社に列せらる。
有形文化財として狛犬昭和三十二年八月五日指定神楽無形文化財として昭和三十五年四月十二日県指定 案内版より
下宮の鳥居の額に神武聖皇帝と書るハ大なる謬也。かく扁額せしより郡中往々大祖大神を祭る所改めて神武天皇と号する所有。是據無事也。凡てか様なる旧社号を後人の私の心を以て謾に改むへきにあらす。昔の大祖の号に書改むへきもの也。
筑前國續風土記拾遺巻之(四十) 表糟屋郡下 若杉村
太祖権現社
とありますが江戸時代後期の国学者青柳種信の「筑前国続風土紀拾遺」によれば下宮の鳥居の額には「神武聖皇帝」と書かれていたそうです。本当の祭神は額通りなら神武天皇であるはずなので調査してみることにしてみましょう。
手水舎
下宮拝殿・本殿
本殿の千木も縦削ぎで特に変わったところはありません。
境内社
手がかりは下宮にはありません。では中宮へ
中宮
篠栗は弘法大師空海が真言密教を悟り唐の国より帰ってきた際に奥の院(若杉山)を訪れ加持祈祷により人々を救済したことに始まります。その奥の院まず鎮座するのがこの社
大山祇神
聖宮
次に若杉山聖宮とあります。
社が見えてきました。
聖宮は和多津見神社 御神体は石 千木は斜めです。
大聖歓喜天
更に空海が開いた大聖歓喜天の御堂には
豊受大神と淡島大明神
密教では大聖歓喜天は大日如来か観自在菩薩を表し最高神です。すると「神武聖皇帝」はここのことでしょうか?上宮に行ってみましょう。
上宮
北山神社
上宮
太祖宮累縁起
若杉山は伊弉諾尊を祝い祭るところにして相殿に天照大神、八幡大神 右殿に宝満大神、聖母大神 左殿に志賀大神 住吉大神三座七殿まします伊弉諾尊は我が国土、人民を化成し給う ~以下略~
下宮と同じです。
善無畏聖廟
善無畏聖廟を調べてみますと彼は飛鳥時代のインドの僧で来日し若杉山でグーズ(大亀)に頂上まで運んでもらったお礼に八大龍王の儀式を行うとグーズは岩になったと伝承がある人です。
ここは上宮でも無くこの山の聖地でもありません。本当の聖地は
善人しか通ることができないハサミ岩 すんなり通れました。
奥の院
この上に聖地はあります。
やはり神武聖皇帝は八大龍王 別名 豊玉彦 八咫烏です。
これが太祖神社の本当の祭神で西の女山 飯盛山が玉依姫と五十猛 東の男山 若杉山が豊玉彦と豊玉姫というのが本当の祭神ということが判りました。
ちなみに太祖は初代皇帝を指し神武聖皇帝を調べると十国前蜀の王建の父の諡号が神武聖文孝徳明恵皇帝とあります。しかし彼は800年代の人で飛鳥時代に儀式を行った八大龍王とは時代が合いません。偶然同名だった可能性もありますが混同される可能性もあるので祭神を入れ替えたのかもしれません。
コメント